2019/08/06 戦争を考える(上)

「戦争を考える」取材班

「あっちゃん」と語る被爆 腹話術で語り継ぐ戦争

 1945(昭和20)年のきょう6日、広島に原爆が投下され、そして15日に終戦を迎えた。あれから74年。時代は、昭和、平成を経て令和に変わった。年々、語り部の高齢化により、直接戦争体験を聞ける機会は減りつつある。今年もキャンパる編集部は3回にわたり、「戦争を考える」企画をお送りする。【「戦争を考える」取材班】


 戦争についての記憶が風化しつつある今日、腹話術を通して戦争体験を語り継いでいる人がいる。千葉県八千代市に住む、小谷孝子さん(80)だ。腹話術の人形の「あっちゃん」と一緒に、東京都内と千葉県内を中心に、小中学校や公民館で講演を行っている。そんな小谷さんに話を聞いた。

 小谷さんは国民学校1年生、6歳の時に広島で被爆した。その日は、兄弟と一緒に川に遊びに行っていた。自身は原爆が落ちた時、水を飲みに家に帰っていて、かすり傷で済んだそうだ。しかし家族は、原爆によって大やけどを負うなど大きな被害を受けた。

 被爆しながらも、自分だけ軽傷で済んだ--戦争が終わった後、そのことに罪悪感を覚えた。原爆で大きなけがもせず、やけども負っていない自分には、原爆の被害について語る資格はない。そう思い、戦後長い間、被爆者であることを隠していたそうだ。

語り部活動 背後に家族の存在

 そんな小谷さんが戦争体験を語るようになった背景には、四つ年上の姉の存在がある。姉は原爆によって大やけどを負い、戦後もその痕や後遺症に苦しめられた。小谷さんが被爆体験を語り継ぐ資格があるのかどうか悩んでいた時に、姉はこのような言葉をかけた。「あなたは元気だったからこそ、周りでたくさんの人が亡くなったのを、見ていたでしょう。その人たちの無念を、風化させてはいけないの」。その姉の言葉に背中を押され、腹話術を通した戦争語り部を、2003年から始めた。

 腹話術自体は、戦後、幼稚園教諭の仕事に就いた時からやっていた。けれど、「戦争」について腹話術で語ることは別物であり、壁にぶつかることもあったという。その時に小谷さんを支えたのは、被爆した4日後に3歳で亡くなった弟だった。「あっちゃん」という名前は、幼稚園教諭として腹話術をしていた時に、自分の長男の名前からとったもの。けれど、戦争を語るにあたっては、「あっちゃんを弟だと思って、弟に語るつもりで、弟に今の平和な世の中を見せるつもりで、やればいい」。そう思ってから、どのように戦争体験を語ればよいのかがつかめたそうだ。

 小谷さんの活動の背後にいたのは、姉と弟だけではない。母の残した言葉も、現在の活動につながっている。母は終戦から6年後に被爆による白血病で亡くなるまで、戦争孤児の集まる島に行き、その子供たちの世話をしていたという。そんな母に最初「よその子ではなく私の世話をして」と訴えたそうだ。それに対し母は「あなたは夜になったらお母ちゃんが帰ってくるでしょう。でも島の子供たちは、どれだけ待っても親が帰ってこないのよ。どんな大変な時でも、自分だけでなく他の人も大切にできる、心の豊かな人になるのよ」と言ったそうだ。

 その母の思いは、小谷さんの現在の思いと重なる。取材の中でくり返し、「日本だけが平和というのはいけない。世界中が平和にならないと」と彼女は語っていた。その言葉通り、15年にはピースボートに乗って世界を回り、海外でも被爆体験を語った。海外の子供たちも、熱心に耳を傾けてくれたという。

 核兵器のない世界を僕たちがつくる、私は国連職員になって世界の平和を守る。そのような言葉も外国の子供たちからもらったそうだ。「外国の言葉を学んで世界中に友達を作って。友達のいる国と戦争しようとは思わないでしょう」。外国での講演を経て、私たちにこのように語った。

 現在、小谷さんは被爆体験や自身の平和への思いを、「あっちゃん」と一緒に語っている。たくさんの人の思いを受け継ぎ、そしてまたそれらの思いを未来に向けて語り継ごうとする彼女に、普段子供たちに伝えていることを聞いた。「私たちと同じ思いは味わってほしくない。そのためには、戦争を昔のことと思わないで。どうすれば平和な世の中がつくれるのか、自分なりに考えてほしい」

 戦争を今の日本とは関係ないものと思っていた子供たちも、小谷さんの体験を腹話術で聞くことで、戦争について「自分なりに考える」ようになったそうだ。戦争のことを語ると、つらいことを思い出すけれど、子供たちのまっすぐな思いに、力をもらうという。


 小谷さんが、母や姉、弟をはじめとして多くの人たちからもらった言葉と思いは、時代を超えて今につながっている。過去から続く平和への祈りを、私たち戦争を知らない世代も受け止め、広めていかなければならない。

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