戦後80年、平和への思い込めて舞台に立つ森下洋子さん

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松山バレエ団の団員とともに笑顔で稽古に取り組む森下洋子さん=松山バレエ団提供

 3歳でバレエを始め、長年の活躍で日本のバレエ界の発展に多大な功績を残してきた世界的バレリーナ、森下洋子さん。国内外の多くのバレエ団では40代までに引退する人も多い中で、舞踊歴73年、今日も現役のバレリーナとして踊り続ける森下さんはまさに特別な存在だ。長く第一線で活躍し続けてこられた秘訣(ひけつ)や、ご自身にとってバレエとは何かをお尋ねした。【新井江梨(キャンパる編集部)】

 先月29日、横浜市中区の神奈川県民ホールで松山バレエ団の新「白鳥の湖」全幕が上演された。森下さんはこの公演で主役の公女オデットと黒鳥オディールの両役を務め、全幕を通して主演し大成功を収めた。

 人間の腕を白鳥の羽に見立て、高くしなやかに腕を上下に動かす森下さん。筆者はこの公演を実際に鑑賞させていただいたが、特にパ・ド・ドゥ(男女2人が踊る場面)が大変印象的だった。爪先で立つためのバレエ特有の靴、トーシューズを履き片足で立って示す白鳥のポーズは優雅そのもの。繊細かつダイナミックな腕の動きで、りんと澄んだ白鳥の心を表現していると感じた。それは森下さんの舞台に立つ喜びそのもののようだ。

森下洋子さんの夫で松山バレエ団総代表を務める清水哲太郎氏が演出・振り付けをした新「白鳥の湖」。森下さんが踊る姿はこの上なく優美だ=松山バレエ団提供

大切なのは「心で踊る」こと

 バレエの公演時間は2時間から3時間程度が一般的で、重要な役柄になるほど舞台に立つ時間も長くなる。役の心を体で表すためにはジャンプや繊細な動きも多く、十分な体力に加えて筋力も必要となる。そのため森下さんは稽古(けいこ)や舞台をきちんと務められるよう、日常のささいな行動にも細心の注意を怠らない。「例えば雨の日は、転ばないよういつも以上に足元に気をつけて歩いている」と話す。

 海外のバレエ団などには入団に身長や体形の条件を設けるところもある。しかし森下さんが1971年に入団し、現在理事長、団長を務める松山バレエ団にはない。「バレエは技術も重要ですが、内面が何より大切です。心で踊ることが大切。舞台上では自分を無くして、役そのものになるように務めます」と熱心に話す。実際、森下さん自身は身長150センチと小柄だが、舞台での躍動感と、表情や表現の豊かさが見る人を引きつけて離さない。

今も聞こえる「新たな音」

 バレエにささげた人生。現在でも一瞬一瞬を大切に生きることを意識している。自分自身の歩みを振り返りつつ、「バレエはすぐにはできません。でも毎日コツコツ積み重ねることで、徐々にできるようになっていく。揺るぎない軸を持ち続け、日々レッスンに励むことが大切」と語った。

 長年、第一線で演じ続けられる原動力は何なのだろう。筆者の問いに、森下さんは「私にとってバレエとは呼吸することと同じくらい自然なこと。生活の全て」と答えてくれた。「白鳥の湖」の主役オデットも1000回以上演じてきたが、「今なお新しい音が聞こえてくる。毎回初心に返り、一秒でも多くバレエと向き合うこと」が長続きする秘訣だそうだ。

生きていることに感謝

 一方で「感謝の気持ちを持つことも大事」と力を込めて話した。森下さんは48年、原爆投下から3年後に広島市で生まれた。11歳の時、東京のバレエ学校で学ぶために広島から単身上京したが、勇気を持って認めてくれた両親の後押しは大きかった。

 また、被爆により左半身に重度のやけどを負った祖母も敬愛している。「祖母は一切、愚痴を言わなかった。『他の指が使えなくても親指1本のみ使えたら洗濯ができる』と常に笑顔だった祖母。そんな祖母のように、日々生きていることに感謝したい」と話した。

愛や夢を伝えたい

 松山バレエ団は5月3~4日、東京都渋谷区のBunkamuraオーチャードホールで「くるみ割り人形」を上演する。森下さんは、平和への祈りを込めて主役のクララを演じる。松山バレエ団での初上演は82年。以来43年間、同役を800回以上演じ続けてきた。この作品は戦争や貧困で社会が混乱した19世紀のヨーロッパを舞台にしており、亡くなった人たちにどうしても会いたいと、クララは生まれ変わり会を開く。

 森下さんは「ウクライナ侵攻やガザ地区での紛争で涙を流す子どもたちの姿を見ると、胸が締め付けられる」と切なさをあらわにする。戦後80年を迎えた今年、「『芸術は人々の幸せのためにある』という松山バレエ団の理念を大切に、バレエを通じ少しでも温かい愛や夢を伝えたい」と舞台に臨む心構えを明かしてくれた。

清水哲太郎氏が同じく演出・振り付けをした「くるみ割り人形」。誰も見向きもしない醜い人形の真の美しさに気づき、いとおしそうに抱く主人公の少女クララ役の森下洋子さん=松山バレエ団提供

魂を磨き続けて

 大学生の私に慈愛に満ちた態度で取材に答えてくれた森下さん。取材の最後に若い世代に向けてのメッセージをお願いすると、こんな激励の言葉をいただいた。「人生の目的は、自分の魂を最大限に磨き続けることにあるのだと思います。現在はインターネットやSNS(交流サイト)で情報があふれかえっている。情報過多の中でも、しっかりと自分の人生を見据えて揺るぎない姿勢を貫き、感謝を持って日々大切に、前向きな気持ちで歩んでほしい」

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