太平洋戦争が終結して今年で79年。戦争の記憶を受け継いでいくために、今年も「戦争を考える」企画をお送りする。初回は、1954年の米国のビキニ環礁での水爆実験で被ばくした第五福竜丸の乗組員を父に持ち、今年初めて公の場で講演を行った杉山厚子さん(73)と、広島の原爆投下で失われた営みを写真のカラー化で再現する「記憶の解凍」に取り組む庭田杏珠さん(22)を紹介する。【「戦争を考える」取材班】
第五福竜丸、地域の苦しみ今も 見舞金が生んだ分断
国内有数の歴史ある水産都市、静岡県焼津市。同市に住む杉山さんは「やいづ観光案内人の会」のボランティアガイドを務めている。市役所7階の展望ロビーに記者を案内すると、杉山さんは焼津港の一角を手で示した。「あのあたりに福竜丸が係留されていたんですよ」。現在、東京・夢の島で保存展示されている第五福竜丸。なぜ焼津で保存されなかったのか尋ねた。「移動せざるをえなかったんですね。焼津の人にとっては悪い思い出だから」
焼津市では、戦前から漁業が経済・文化と強く結びついていた。太平洋戦争中は、同市から食糧運搬船として80隻以上の船が軍に徴用されている。戻ってきたのはわずか十数隻。212人の漁師が命を落とした。多くの乗り手が10代の若者だったという。杉山さんの父、見崎吉男さんも徴用された一人だったが、からくも生還を果たしていた。
第五福竜丸の被ばく事件が発生したのは54年3月1日。ビキニ環礁周辺海域で操業中だった。吉男さんを含む全乗組員23人は放射能を大量に含んだ灰を浴びた。やけどや出血、脱毛など原爆症の症状が見られ全員が入院し、半年後に無線長・久保山愛吉さん(当時40歳)が亡くなるなど、水爆の脅威を世に訴える事件となった。「父は戦時を生き抜いたのに、戦争が終わってから被ばくし、生涯苦しんだ。とても気の毒だと思っています」と杉山さんは話す。
被ばくから70年となる今年、観光案内人の会でも第五福竜丸に関する講演会が企画された。初めて演台に立つことになった杉山さん。「事件について調べる中で、父のことを語り継ぐ決心がついた」という。
今年5月に焼津市内で行われた講演では、吉男さんが目にした水爆実験や、被ばくしたものと知らずにマグロを水揚げしたことを生涯悔やんでいたことが、公の場で初めて語られた。
幾多の病を乗り越えつつ2016年に90歳で亡くなった吉男さんは生前、ことあるごとに謝罪の言葉を口にしていた。杉山さんは「何言ってんの。お父さんは被害者じゃない」と声をかけたが、生前の吉男さんは同調しなかった。第五福竜丸について勉強していく中で、杉山さんは初めて父親の心の痛みに思いが至ったという。
杉山さんが講演で強調したのが、元乗組員たちの被ばく後の苦しみだ。焼津では被ばくした魚が土中深く埋められたり、マグロの仲買人が倒産したり、消費地から魚が返品されたりした。魚価の大幅な下落など、深刻な漁業被害も生じた。
日米両政府は早期解決を図った。法律上の責任問題とは関係なく、米国は日本政府に200万ドル(当時のレートで7億2000万円)の慰謝料を支払った。
一部は見舞金として元乗組員に配られたが、お金を受け取った元乗組員に対する不平不満を地域住民が口にするようになった。「あんたも福竜丸に乗ればよかったのに」と言葉をかけられる漁師もいたという。戦争の被害に加え、海難事故で家族を失う人も多くいた土地柄だ。「遺体さえ見つからない人もいた。命の重さは同じなのに、莫大(ばくだい)な見舞金をもらう人とそうでない人がいるのは、地域住民からしたら納得いかなかったことだろう」
事件のことを証言し続けた吉男さん。一方で元乗組員の多くは中傷を恐れ、口を閉ざすことを選んだ。杉山さん自身も今年に入り、「なんだ(見舞い)金をもらったのか」と声をかけられ、驚いたと話す。
親子が見つめてきたのは、見舞金が地域社会にもたらした深刻な分断だ。そのしこりは今なお残っている。「せめて見舞金が漁業関係者に平等に行き渡れば、父や乗組員たちはこんなに苦しまなかったのかもしれない」。杉山さんの思いは切実だ。
講演では熱心に耳を傾ける人の多さに驚いたと話す杉山さん。初めての講演だったが「今後も続けてほしい」という参加者の声に励まされたという。「人生はずっと勉強。若い世代の人にも、多くのことに関心を持ってほしい。その過程で、戦争や平和について考えてもらえたら」。講演をはじめ、取材を受け始めたことを「第一歩」と表現していたのが印象的だった。
被爆前の広島の写真、AI技術でカラー化 失われた日常、身近に
「記憶の解凍」は、戦前戦後に広島の被爆地で撮られたモノクロ写真を、人工知能(AI)の技術を用いてカラー化し、当時の記憶をよみがえらせる取り組みだ。広島県出身の庭田さんが、その取り組みを始めたのは高校生の時。広島市の平和記念公園で、核兵器禁止条約の締結を求める署名活動をしていた際、被爆者の浜井徳三さんと偶然出会ったことがきっかけだ。
原爆投下時、浜井さん自身は市外に疎開していて無事だったが、市内で理髪店を営んでいた両親と兄姉を失った。被爆前の広島市の街並みを知る浜井さんは、映画「この世界の片隅に」の制作に協力した。作品に登場する理髪店は浜井さんの実家がモデルだ。
浜井さんは、亡くなった家族に会いたいあまり何度も映画館に通っていた。そのことを知った庭田さんは、当時覚えたばかりのAIによる自動色付けの技術を使って、浜井さんにカラー化した写真アルバムをプレゼントした。元になったのは、浜井さんが疎開する際に持ち出して大切に保管していた家族写真のアルバムだ。浜井さんは「家族がまだ生きているようだ」と大喜びしてくれた。
この出来事をきっかけに、庭田さんは被爆前に撮られた被爆地の写真の「記憶の色」の復元にのめり込んでいく。カラー化した写真を集めた展示会の開催や、被爆前の広島を再現したAR(拡張現実)アプリの開発などにも取り組んだ。東京大学進学後は、2020年までの成果をまとめた写真集を出版。広島と東京を往復しながら、戦争経験者との対話を続けてきた。
戦争の記憶を伝えるのは、語り手にとっても、聞き手にとってもつらいこと。しかし色を取り戻した被爆前の日常の写真は、当事者の語りやすい記憶を引き出すことができるという。「被爆前に今と変わらない幸せな日常があったと伝えることで、原爆で失われた悲劇を想像させることができる」と庭田さんは言う。
昨夏には、庭田さんがかつて通っていた幼稚園の平和学習に招かれ、講演を行った。庭田さんは、園児たちが写真の中の人の幸せな姿を感じ取り、その後の悲劇も想像できていることに感心したという。自身が幼稚園の時には、原爆の悲惨な光景を写した写真ばかりを目にして苦手意識を持っていたからだ。
年下の世代にとって、戦争はさらに遠い過去の出来事だ。それでも、身近に感じてもらう方法はあるのだと庭田さんは実感できた。「私自身も戦争を体験していない世代だが、下の世代に伝え続けていくことが使命だと感じた」と話す。
終戦から80年を迎える来年の夏には「記憶の解凍」の活動を追った映画が公開される予定だ。庭田さんが7年間撮りためた被爆者との対話の映像など、庭田さんの活動が盛り込まれる。
これまで国内外30人以上に話を聞き、カラー化した写真は300枚以上にのぼる。しかし映画はただ証言を並べるだけではない。子どもたちや海外の人にも興味を持ってもらえるようにと、自身が書いたイラストを用いてアニメーションにも挑戦している。クラウドファンディングで得た資金を用いて、プロの力も借り、アニメーションもより良いものにできそうだという。「戦争や平和について関心のない人にも見てもらいたい」。映画は、庭田さんが行けない土地でも戦争の記憶を伝えられるからだ。
昨年7月には「記憶の解凍」の出発点だった浜井さんが、88歳で亡くなった。戦争体験者に話を聞けなくなる日は迫っている。「戦争を直接体験していない世代が、当事者の記憶の100%を受け継ぐことはできない。被爆者なき時代に記憶を伝える上で、自分なりに表現することが新しい継承のあり方だ」と庭田さんは話す。今春、広島テレビ放送に就職した庭田さんは「今後も日常の中で戦争や平和について想像するきっかけを作っていきたい」と意気込む。