太平洋戦争は、早期終結できずに多大な犠牲者を出した。今回は、早期終結を選ばず地下に籠もってまで戦いを続ける道を選んだ当時の軍部の考えがよく分かる慶応大学日吉キャンパス(横浜市港北区)の日吉台地下壕(ごう)と、長引いた戦争の結果、ソ連の対日参戦で侵攻を受けた樺太(現ロシア・サハリン)の地から逃げ延びた経験を持つ石田アイ子さん(89)=北海道在住=を紹介する。【「戦争を考える」取材班】
大学内に旧日本軍地下壕 「戦争遂行」肌で感じて
「暗くてすべりやすい場所があります」。8月3日に開催された日吉キャンパスの地下壕見学会。事前に注意を受けて入った地下壕は、真夏なのに長袖でなければ寒く感じるほどひんやりとしていた。「深いところは地下30メートル、温度は年間を通じて18度ほどです」とガイドさんの声。コンクリート製の天井や壁。通路は2人で横並びになっても気にならない程の幅があり、天井も高い。
懐中電灯を頼りに暗い通路を30分ほど進むと、地下壕の中枢部である旧海軍連合艦隊司令部の電信室と暗号室に行き着いた。内部はきれいに塗装された跡があり、ひと目でここが特別な場所だと伝わってくる。「モールス信号を使った無線受信などが行われていました。この部屋には当時珍しい蛍光灯も使われていたのです」とガイドさんが話した。
陸に上がった司令部
連合艦隊司令部が同キャンパスにある寄宿舎に入ったのは1944(昭和19)年9月29日。キャンパス開設から10年後のことだった。同司令部はもともと海上の軍艦(旗艦)に置かれていたが、米軍の攻撃で主要な軍艦が次々に失われたことと、戦域の拡大で、船上で情報を受発信することに限界がきたため、地上移転に踏み切ったという。学生の多くは学徒出陣により本籍地の軍隊に入隊していたため、その姿は校内からほとんど消えていた。
同キャンパスが移転地に選ばれたのは、施設が新しくて充実していたこと、また軍港のあった横須賀と東京都心の中間地点にあたり、移動に便利だったことが大きかった。
加えて、同キャンパスが「日吉台」と呼ばれる台地上にあることも大きな理由だった。地下に穴を掘り、広大な地下壕を建設しやすかったためだ。旧海軍は同キャンパスの地下に、約2600メートルに及ぶ地下トンネルを掘削。地上施設が米軍機の攻撃を受けても、司令部としての機能が維持できるようにした。
現在「日吉台地下壕」と呼ばれるこの地下壕の保存活動に長年取り組んできたのが、同キャンパス内に校舎がある慶応高校校長の阿久澤武史さん(60)だ。地下壕の存在とその保存について関心を持ったのは、担任するクラスの生徒を連れて地下壕を見学したことがきっかけだったという。
同地下壕の戦跡としての価値について、阿久澤さんは「そこに戦争を主導していた人たちがいたということ。作戦を立案し、指令を出して戦争を遂行していた。それを感じられる場所であり、ここでしか得られない学びがある」と語る。阿久澤さんによると、同地下壕からは海軍機による特攻や、戦艦大和の水上特攻作戦の指令も発せられた。
阿久澤さんは、89年に発足した「日吉台地下壕保存の会」の会長も務めている。同会は、地下壕を管理する学校法人・慶応義塾の許可を得て見学会を実施している。
同3日に行われた見学会には、親子連れなど約30人が参加した。参加者の一人で慶応高校1年の男子生徒は「ウクライナ侵攻など戦争が身近になっている中、自分の通う学校の下にあるこの施設を見学できて、貴重な経験になった」と感想を語った。
研究教育資源として
保存上の課題として阿久澤さんは、国や自治体の史跡指定が受けられていないこと、慶応の敷地外での工事で壕が壊される可能性があることなどを挙げた。ただ保存の目的は観光や町おこしのためではない。研究や教育の資源としてどう有効活用していくかが最大の課題だという。
慶応義塾は近現代史を学ぶ自校の学生向けに見学会を開催しているが、自校だけでなく、多くの教育現場からの見学も受け付けている。「地下壕を実際に見て、このキャンパスで戦争があったことを五感で感じてほしい。そして多くの犠牲を払いながら、どうして戦争をやめられなかったのか。現代の問題につなげて考えてもらえたら」と阿久澤さんは話した。
樺太で何が起きたのか 引き揚げ者「記憶語り継ぐ」
現在、旭川市に住む石田さんは、久春内(くしゅんない)村(現・サハリン州イリインスキー)で生まれ育った。父親の仕事は板金業で、母親、祖母、6人兄弟の9人家族。アイ子さんは上から4番目だった。久春内は、南樺太の真ん中にある人口3000人程度の村だった。
石田さんは国民学校4年生の時に終戦の日を迎えた。ソ連による侵攻はその直前から始まり、久春内にもソ連の兵士、移民が押し寄せてきた。村内で日本人との戦闘や小競り合いはほとんどなかったが、「小学校でもソ連の国歌をロシア語で歌わされるようになり、とても屈辱的だった」と当時の心境を明かす。
風貌も言葉も違う見知らぬ者同士の暮らしには緊張感が生じた。だが石田さんの隣の家に住んでいた豆腐屋の青年がソ連軍の部隊に村民との交流を呼びかけ、その行動が事態に大きな変化をもたらしたという。
青年は旧日本軍に徴兵された経験を持ち、ソ連軍に知られれば、シベリアへ送られるのが確実な状況だった。そこで、わらにもすがる思いで将校に相談したのだという。すると、将校はこんな提案をしてきた。「樺太には娯楽がない。娯楽で兵隊を楽しませるようなことができれば状況が変わるかもしれない」
つかの間の交流
そこで、村人たちは有志で楽劇団を結成。全員、素人だったというが、日本の歌や踊りを必死に披露した。その結果、「日本人のお客さんからソ連の兵隊まで、みな大騒ぎで喜んだ」という。村人たちの作戦は成功だった。1947年6月20日。石田さんら村人たちがソ連政府から引き揚げ命令を受けた。駅へ向かうと、そこには多くのソ連人が見送りにきていたという。
こうして日本人、ソ連人が平和的に共存できたのは、例外的なことだったのかもしれない。ソ連軍の侵攻で、南樺太では民間人を含む5000人以上の日本人が死亡した。地上戦と、その後の引き揚げで悲惨な経験をした人は数多くいる。
実際、石田さんと同じく旭川市に住む女性(85)は、ソ連の艦砲射撃や移民による略奪に遭遇した。叔父は捕虜として捕らえられ、材木施設で強制労働させられたという。引き揚げに際しても逃亡と受け取られ、追っ手をかけられ銃撃される始末だったという。
ソ連政府に怒り
石田さんも、ソ連、そして現在のロシアという国に対してはまったく違う感情を抱いている。きっかけとなったのは、久春内に進駐してきたソ連軍に少年が組み込まれていたことだ。「変声期の前の少年たちがいたんですよ。親にも内緒で畑から連れ出して、兵隊にして、樺太に送り込んでいたんです」。彼らは、戦争が終結した後も親元に帰ることができず、樺太での生活を強いられたという。
また軍隊とともに樺太に大挙して押し寄せた移民は、誰も食料や財産を所持していなかった。石田さんはこんな話を聞かされた。「ソ連政府から、新しい土地があって、家も財産も手に入るから、手ぶらでいけるからと紹介された」。しかし現実はまったく違い、食料や住居が手に入らず苦しむことになる。そして略奪行為に走る者も出た。
石田さんは、当時の状況と現在のウクライナ侵攻を照らし合わせ、「ソ連、ロシアというのはどこまでも無責任な国家ですよ。いまのウクライナ侵攻を見ていても強く感じる」と話す。
減少する生存者
来年には戦後80年を迎える。南樺太からは終戦後、30万人近くが引き揚げたとされるが、生存者は減り続け、引き揚げ者らでつくる「全国樺太連盟」は会員の高齢化で活動の継続が難しくなったとして、2021年に解散した。
一方で、記憶の風化も深刻だ。昨年6月、当時の松野博一官房長官は太平洋戦争末期の沖縄について「日本で唯一の地上戦があった地域」と発言。すぐ訂正に追い込まれた。実際には、南樺太ではソ連軍侵攻で地上戦が行われていたからだ。
「沖縄が唯一」というのは「不正確」だと、政府統一見解が10年に出ていた。それにもかかわらず、樺太で何が起きたのか、その認識は定着していない。石田さんは「広島、長崎に比べ、被害の状況があまりにも伝わっておらず、ただただ悲しくなる。しっかり語り継いでいかなければ」と危機感をあらわにした。