大楽人:タイ「地獄寺」に夢中 早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程 椋橋彩香さん(26)

自身の著書とアンケート調査の結果をまとめたファイルを持つ椋橋さん
自身の著書とアンケート調査の結果をまとめたファイルを持つ椋橋さん=東京都内の自宅で、佐藤太一撮影

 「地獄寺」をご存じだろうか。立体像を用いて地獄を表した空間を併設した寺院のこと。日本も含め地獄を表した空間はアジア各地に存在するが、その中でもいっぷう変わった方法で地獄を表現するのがタイ。そんな地獄寺を研究する、椋橋彩香さん(26)=早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程=に話を聞いた。【千葉大・谷口明香里】


最初は好奇心から

 仏教徒が9割以上のタイには約3万の寺院があるといわれ、そのうち地獄空間を有する「地獄寺」は100カ所近くに及ぶ。そこでは、地獄におちた亡者たちが獄卒に責め苦を与えられる場面が赤裸々に表されている。一見グロテスクなその様相から、日本では「珍スポット」として紹介されることもある。

 椋橋さんが初めて存在を知ったのは高校生のとき。グロテスクなものに興味があり、友人と「グロテスクなもの探し」をするうちに出合ったのが地獄寺の写真集。タイ料理が好きでもあり、未踏の地、タイへの関心が高まった。とはいえ、当時は将来地獄寺を研究しようとは思わず、「やばいものを見つけた」という好奇心しかなかったという。

 転機が訪れたのは、大学2年生の春休み。高校の時に一緒に地獄寺を知った友人とタイ旅行へ。「行かずにはいかない」と地獄寺を目指す。交通の便が悪く、言葉も通じない行程は想像以上に困難。不安でいっぱいだったが、到着したときには感動して涙がこぼれたという。

 実際に自分の足で訪れてみると、「地獄寺を見てやばい!と思うのは日本人だけ。タイの人は当然のように受け入れている」という感覚の違いに気が付いた。この違いはなにか。地獄寺が好奇の対象から研究の対象へと変化した。

 しかし、早速大きな壁にぶつかる。日本では先行研究がほとんどなかった。研究の進め方が分からず、悩んだという。そこで椋橋さんは、現場を見ることから始めた。アルバイトでためたお金で長期休みのたびに単身でタイに行き、1カ月間の滞在で毎日、1~2カ所ほど地獄寺を回った。計画を立てても、知らない土地での調査は予定通りに進まないことが多い。次第に予想外の出来事にも対応できるようになった。

 もちろん現地ではタイ語を使う。週に1回の講義のほかに自主的に学習し、習得していったという。「タイに行ったらタイの価値観に合わせた行動を心掛ける。研究者というよそ者であるので村のコミュニティーには謙虚に入る」と語る。

視覚で伝える仏教

タイ・チョンブリー県にある地獄寺「ワット・セーンスック」。中央にある2体は餓鬼。生前にケチで施しをせず、布施をしている人を見るとそれをやめさせた人。その周りにある複数の像も生前に犯した罪に応じて地獄で罰を受けている様子を表している=梅澤美紀撮影
 現地調査では主に、地獄寺の発案、制作に携わる寺の住職へのアンケートを行う。制作理由、何を手本にしたか、地域住民の反応など項目は多岐にわたる。制作は地元の人が行う。寺院に奉仕をして現世での徳を積み、来世でのことを思うタイ人は制作に協力的だという。その調査の中で、住職の地獄寺制作の意図と訪れる地元の人の間で共通の認識ができているかどうか疑問がわいた。

 住職によると、像は芸術でも恐怖の対象でもなく、仏教の教えを視覚的に説く教育のためのものだという。例えば、生前に豚を殺す罪を犯した人が豚人間になり、切り刻まれている像。これは五戒の中の一つ、不殺生を表現。実際に見られない地獄を表現するために、発案をする住職は何をモデルにしているのか、椋橋さんは研究している。

 記者は椋橋さんが実際にこれまでに集めた、タイ語で書かれているアンケートをとじた分厚いファイルを見せてもらった。なんと彼女が訪れた寺院は地獄寺を含め107カ所に及ぶ。これを1人で一からやったのかと思うと椋橋さんの苦労は計り知れない。

 しかし、前例のない研究は発見も多く、やりがいが大きい。併せて「研究をやらずにはいられないという気持ちがおさまらず、博士課程まできた」という。タイの人々と関わることが好きなのも研究が続けられる一つの要因だ。「タイの人たちってすごく優しくて、心の扉を開けてくれるんですよね」(椋橋さん)

日本でツアー開催

 今月8日、念願だった日本での地獄巡りツアーを開催。タイの地獄寺とは違うが埼玉県にある、地獄に関するスポットを回った。参加者が視覚的におもしろいと感じるだけでなく、学問的に参加してよかったと思える解説を心がけた。

 研究の苦労に心が折れそうになることもある。そんな時にイベントで多くの人に向けて自分の学んできたことを発信し、自分のやってきたことが誰かの新しい気付きになったとき、研究をやる意義を感じるという。椋橋さんは「地獄寺はまだまだ研究途中で、全体像を解明するにはほど遠い。じっくりと研究したい」と話す。

 卒業後の進路は未定だが、「これからも地獄寺をはじめとするタイの文化に関わり続けていきたいし、タイでの地獄寺ツアーを開催して発信もしていきたい」と語る。未解明な部分の多い地獄寺研究。これからどんどんおもしろくなりそうだ。


椋橋さんおすすめのタイの地獄寺
(1)ワット・パイローンウア(スパンブリー県)

 タイで最も有名な地獄寺。1970年代初頭に地獄空間の制作がはじまり、現在もなお増え続けている進行形の地獄寺である。700体を超える亡者の像には、誰一人として同じ者はいない。椋橋さんの著書「タイの地獄寺」の表紙にもなっている。

(2)スワン・パーブリラットナージャーン(スリン県)

 経典に則した伝統的な地獄表現と、まったく新しい発想の地獄表現が混在する。森のなかにあり、亡者の世界に足を踏み入れたかのような錯覚に陥る。動物の片足を表した亡者の像は、他の寺院でも類を見ない。


■椋橋彩香(くらはし・あやか)さん
 地獄寺研究家。1993年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科美術史学コース博士後期課程3年。會津八一(あいづやいち)記念博物館助手も務める。2018年「タイの地獄寺」(青弓社)を出版。

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