戦後80年の節目を来年に控える今、戦争経験者の数は急速に減少し、記憶の継承が危ぶまれている。今回は、戦争を知らない世代、特に若者層の関心を引きつけるための工夫を凝らす東京都千代田区の「しょうけい館(戦傷病者史料館)」の取り組みと、日本の敗戦で生まれ故郷の台湾から引き揚げ、混乱期を生き抜いた経験を語る活動に取り組む上野正和さん(91)=大阪府在住=を紹介する。【「戦争を考える」取材班】
東京・「しょうけい館」 知らぬ世代も自分事に 記憶継承へ「実感」する展示
東京メトロ・都営地下鉄九段下駅から徒歩で数分。大きな通りに面したビルの中に「しょうけい館」はある。太平洋戦争で負傷した日本の戦傷病者とその家族に焦点を当て、証言を保存し、記憶を「承継」していこうという趣旨で命名された珍しい史料館だ。Advertisement
厚生労働省が2006年に設置した同館は、中高生や大学生向けの平和教育の場として利用されることが多く、団体客の7割を若い世代が占める。しかし戦争経験者の減少で、貴重な証言を直接聞く機会は減るばかり。そこで同館は地区再開発で23年に現住所に移転したことに合わせ、「若者により伝わる展示」を目指した改装を実施した。
義手触れて知る
常設展示室に入ってまず目に入るのは、リニューアル後新たに設置されたスクリーン。ここで投影される導入映像では、現代に生きる若者が遠い国で起こる戦争に思いをはせる様子が映し出される。広報・総務を担当する川上正二さん(31)によると、「戦争経験のない若者が戦争を自分事として捉え、展示内容に向き合いやすくする狙いがある」という。
展示は、ある兵士の徴兵から戦後までの人生を追体験する形で展開される。こちらも戦傷病者が抱いた不安や葛藤を見学者が実感しやすくする工夫がなされている。また実際に触ることのできる展示があるのも特徴だ。「触れて知る展示」コーナーでは、手や足を失った戦傷病者が使用した義手と義足のレプリカを実際に触り、その質感や重さを体感することができる。
展示物を見た来館者の女性(18)は「今では考えられないものばかりでとても衝撃を受けた」と話した。同伴していた父親(64)も「医療技術が今ほど発達していなかった当時は、苦労することも多かったと思う。戦争について改めて考える良い機会になった」と語った。
次代の語り部育成
同館では戦傷病者の苦難を語り継いでいくため、16年から次世代の語り部の募集と育成も行ってきた。3年間の研修を経て22年から語り部として活動している横山邦紹さん(57)は「戦争が自分事として捉えられなくなることに危機感を感じた」と、語り部を志したきっかけを明かす。
世界中で繰り返される戦争。平和を訴える世論がある一方、戦争がビジネスとして成立している現実がある。このようないびつな社会の中で、意識していないと知らず知らずのうちに戦争の世界に巻き込まれてしまうのではという恐れを感じていたという。
今年7月14日にしょうけい館で開催された定期講話会で、横山さんは、太平洋戦争で負傷し両眼失明となった3人の戦傷病者について講話を行った。研修時に作成した講話原稿は、テーマ設定から自身で行い、半年かけて仕上げた。ただ原稿を読み上げるのではなく、印象に残るよう効果音を入れるなど工夫を重ねたという。筆者も講話会に参加したが、幅広い世代の参加者が訪れて会場に入りきらないほどだった。盲目というハンディを抱えながらも家族と支え合って懸命に生きる戦傷病者。その姿を伝える横山さんの話に、強く心を打たれた。
語り部として常に意識しているのは「戦争を起こしてしまったという過去の過ちをありのまま伝えること」だという。「戦争について語ると美化してしまう部分があり、実像からかけ離れたイメージが定着してしまう懸念がある」と指摘する横山さん。「しっかりと過去に向き合い、過ちに気付いた人が周りに発信していくことが大切だ」と力を込めて話した。
10月にはリニューアルから1年を迎える。新型コロナウイルスの影響で一時減少した来館者数も盛り返し、中学校の団体が平和学習として来館することが増えている。ロシアによるウクライナ侵攻やパレスチナ自治区ガザ地区での戦闘など世界各地で起こる戦禍の惨状を知り、同館に訪れる人も多いという。
「戦争は遠い昔の話だと思いがちだが、今も後遺症やつらい記憶で苦しんでいる方がいる。まずは戦争に関心を持ち、史料館なども利用しながら過去に何があったのかを、自分自身の目で見ていただきたい」と川上さんは話した。
台湾生まれ、上野正和さん(91) 終戦後「内外」に悲劇 引き揚げ問題語り継ぐ「湾生」
上野さんは1933(昭和8)年、台北州新荘郡新荘街で生まれた。父は警察官だった。記憶にあるのは父が商事会社に転職した後、5歳で過ごした中西部の都市・嘉義での出来事だ。「嘉義農林学校野球部の練習を見に行ったり、嘉義神社の秋祭りでみこしを担いだりした」ことが思い出に残っている。
台湾は1895(明治28)年から日本の統治下にあり、上野家と同じく多くの日本人が移り住んでいた。上野さんの家族がその後に居を移した台北市では、近所の台湾人の家屋前にあった池で水遊びをして、危うく溺れそうになり、助けてもらったこともあった。
そんな上野さんの記憶に強く残っているのは、1945年5月31日の台北大空襲だ。100機を超す米軍の爆撃機による波状攻撃で3800発の爆弾が街中に投下された。近くの樺山小学校にも500キロ爆弾が7発着弾した。上野さんは防空壕(ごう)に避難して難を逃れたが、当時市内では、この空襲で3000人を超す死者が出たとされる。上野さんは「こんなに爆弾が落ちているのに助かったのは、運が良かったからだろう」と振り返る。
それから2カ月半後に日本は敗戦。台湾は当時の中国国民党政権が接収し、暮らしは様変わりしていく。降伏調印後の同年10月ごろには失業者が増え、物価が高騰した。ラジオ放送は日本語から中国語へ変わり、新聞記事も最後の1ページだけは日本語で、それ以外のページは全て中国語で書かれるようになった。学校でも中国語教育が始まった。
国民党政権は、技術者などを除く大半の日本人に引き揚げを命じた。上野さん家族は46年4月、和歌山県の田辺港に船で帰還した。引き揚げに際し持ち出すことが認められたのは1人当たり、日用品や衣類、炊事道具などを詰め込んだ行李(こうり)1個と布団袋、そして現金1000円だけ。「仕事がない、家もないところから始まった生活には苦労が多かった」と上野さん。一家は父の兄の家にしばらく間借りしたが、その後祖父が持つ鳥小屋を改造して、父の弟家族と同居する生活が始まった。
台湾を含むアジア各地の日本の植民地は当時「外地」と総称された。上野さんの印象に強く残っているのは、やっとの思いで帰還を果たした外地からの引き揚げ者に対する社会の視線の冷たさだった。父は地場産業の産品だった靴下を売って生計を立てたが、闇物資と見なされ没収されることが多かった。上野さん自身も学校などでよそ者扱いされることがあったという。
上野さんは生活や勉学に支障を感じつつも、親戚に教育関係者が多かった影響もあって教師を志すようになった。大阪学芸大学(現・大阪教育大学)を卒業後、定年まで大阪府の小・中学校の教壇に立った。
台湾で生まれた日本人は「湾生」と呼ばれる。上野さんは台湾で暮らした思い出を大事にしており、小学校時代の台湾人の友人とは今でもLINEで連絡を取り合う仲だ。
一方で、湾生としての経験や暮らしから、また教育者としての経験から、日本の歴史教育には違和感があると上野さんは言う。「教育現場では8月15日が終戦記念日とされ、天皇の玉音放送が戦争の終結ととらえられているが、日本の植民地だった満州、樺太、千島列島はソ連軍の侵攻が始まり、悲劇が続いていたことが教えられていない」。そんな思いから、湾生として引き揚げ問題を語り継ぐ語り部活動を続けている。
戦争で敗れて以来、日本は平和を享受している。しかし、その平和がいつまでも続く保証はない。上野さんは、戦争を体験していない世代に向けて、こう語りかける。「国として戦争にならないように努力することは大事だが、もし戦争になってしまったらどうするのか。戦争についてしっかり考える教育をしないといけない」