今年2月7日から12日にかけ、沖縄本島最南部の荒崎海岸で黙々と作業をする学生たちの姿があった。彼らが行っていたのは、太平洋戦争で国内最大の地上戦となった沖縄戦で亡くなり、今日なお現地に残されたままとなっている戦没者の遺骨収集だ。収集活動に取り組む参加者の思いを取材した。【早稲田大・井上亜美】
記憶の風化、高齢化… 若者の手で継承を
1945年3月末の米軍上陸で始まった沖縄戦では、3カ月に及ぶ激烈な戦闘の末、一般県民を含むおよそ18万8000人が犠牲となった。そのうち約3000柱の遺骨が未収容のままとされる。「終戦から78年たった今でも、戦地に取り残されたままの方がいる。一柱でも多くお迎えしたい」。そう語るのは、荒崎海岸での収集活動参加者の一人で、NPO法人国際ボランティア学生協会(IVUSA)に所属する、立命館大4回生の加藤昇太さん(21)だ。
負の歴史と対する
IVUSAには、全国約70大学のおよそ2500人の学生が所属する。国際協力や環境保護、災害救援など幅広い活動を展開しており、遺骨収集活動は厚生労働省の委託を受け、太平洋の激戦地・硫黄島での活動を皮切りに95年に始まった。2019年までに101回実施され、のべ1178人が参加した。20~22年もコロナ禍による行動制限の影響を受けたものの、小規模で活動を継続した。
加藤さんが遺骨収集の取り組みを知ったのは21年の夏ごろで、IVUSAに加入してからだった。「遺骨収集を通して改めて過去の歴史や、知ったつもりになっていた戦争と向き合いたいと考え、参加を決意した」と話す。
加藤さんは22年9月に沖縄県での遺骨収集活動に初参加。その後も精力的に活動に取り組み、今年9月までに硫黄島を含む計4回、収集活動に参加した。遺骨収集の際には、学生や社会人のボランティアのほかに、肉親を亡くし遺体を迎えられないまま戦後を過ごしてきた遺族と関わる機会も多い。そうした遺族と行動を共にし、実際に骨片を見つけて手にしたことで「使命感に火がついたというか、一柱でも多く、ご遺族のもとにお返ししたいという思いが強くなった」という。
人々の無念さ思う
今年2月に遺骨収集活動が実施された沖縄県糸満市の荒崎海岸は、沖縄戦末期に米軍に追いつめられた数万人もの日本兵や民間人が悲惨な最期を遂げた場所だ。現場では、およそ60人の学生が遺骨収集を行った。
荒崎海岸では以前から繰り返し遺骨収集が行われてきたが、その度に新たに見つかる骨片も多い。海岸沿いに樹木が生い茂り、木を伐採しなければ収集が困難な場合もある。足場の悪い中で骨片を発見した際には「敵兵に見つからないようさまよった人々の必死さや絶望感を感じ取った」と加藤さんは話す。
多くの戦没者遺骨が眠るのは沖縄だけではない。第二次大戦で日本人は、沖縄や硫黄島を含む海外で約240万人が死亡した。厚労省によればこのうち約112万柱が未収容のままとなっている。16年に成立した戦没者遺骨収集推進法では戦没者の遺骨収集は国の「責務」と明記されている。しかし現実として収集は進んでいないのが実態だ。収集は生還者や遺族証言をもとに死亡場所や埋葬場所を絞り込んで実施しているが、年を追うごとに新たな情報は得にくくなる事情がある。時間の経過で地形や植生、遺骨の状態が変化してしまうことも壁となって立ちはだかる。コロナ禍も逆風となった。
活動の周知、課題
終戦から78年がたち、これまで収集活動を支えてきた遺族にも残された時間は短くなっている。加藤さんは「学生が収集を行うことで、活動参加が難しくなったご遺族の代わりになることができる」と強調する。遺骨収集という、言葉を用いない戦没者との対話を積み重ねた加藤さん。「戦没者や遺族のために、そして遺骨収集問題を世の中が忘れないように」という強い願いに、同じ世代の記者は圧倒されるばかりだった。
戦争の記憶の風化は進み、未収容の遺骨の存在や収集活動を知る学生は決して多いとは言えない状況だ。「自分で活動を続けるだけでは限界がある。活動を広く知ってもらい、一人一人が戦争や平和について考えるきっかけを増やすことが今後の課題」と加藤さんは問題意識を口にする。来年には社会人となる加藤さんは今後、収集活動の経験者として他の参加学生に遺族の思いを伝え、収集のノウハウを継承していく取り組みに力を尽くす考えだ。