中世の欧州で飲まれていたビールを、静岡県産の原料を使って復活させようというプロジェクトが今春スタートする。中心となって推進するのは、静岡大学の学内組織「発酵とサステナブルな地域社会研究所」だ。所長を務める大原志麻・人文社会科学部教授(47)ら、産官学の垣根を越えて参集したプロジェクトの中心メンバーに、復活に取り組んだいきさつや目的、今後の展望などについて尋ねた。【駒沢大・根岸大晟】
「グルート」確保がかぎ
復活を目指すのは、香り付けに多種多様なハーブを配合した香味料「グルート」を使うビール。現代のビールづくりでは香り付けにホップを使うが、中世の欧州では、グルートビールが主流だった。「グルート」の主原料であるヤチヤナギという植物を北海道から取り寄せて、今年5月から静岡県内で栽培に着手。醸造方法を研究しつつ3~5年かけて収穫し、販売も視野にグルートビールの醸造に取り組むことにしている。
再現、実験きっかけに
プロジェクトが始動したきっかけは、中世史を専攻する大原教授が昨年夏、食文化研究の一環でゼミ生と取り組んだ、グルートビールの再現実験だった。英語やスペイン語の文献を学生たちとともに読み込み、学内外の専門家、研究機関の協力を得て原材料を確保。さらに同大農学部の協力も得て醸造を実施し、酒税法に違反しないアルコール度数1%未満のビールづくりに成功していた。
この再現実験によって、「文献を読んだだけでは分からない中世ビールの特徴や中世の人々のくらしが見えてきた。多くの人を引きつけるビールづくりにも興味を持った」と大原教授は話す。そしてこの再現実験を発展させ、「原材料を静岡県内産で確保し、静岡独自のクラフトビールとして製品化、観光資源化して地域おこしに貢献することを目指す」のが、今回のプロジェクトだ。
「グルート」の主原料、ヤチヤナギは静岡県内で栽培し、確保する計画だ。プロジェクト始動で用いる苗木10本は、北海道立総合研究機構森林研究本部林業試験場が提供する。同試験場道東支場の脇田陽一支場長(55)によると、「野生のヤチヤナギは植物間の成長競争に弱い、絶滅も危惧される植物。ミズゴケなどのある高層湿原に自生するが、標高の高いところでは育たない」特徴がある。
中世の欧州で多用されたヤチヤナギは現在も北欧などの湿地帯に自生しており、一部の国では今もビールの原料として使われている。国内では北海道のほか、愛知県や三重県にも自生しており、「他の植物と競争させず、人がきちんと管理をすれば静岡での栽培、作物化は可能だ」という。
大原教授も「絶滅の恐れもある植物を放置せず、人の手で栽培して増やし、食材の一部として利用することは、SDGs(持続可能な開発目標)の観点からも意味がある」と、栽培の意義を説明した。
地元醸造所が製法模索
そのヤチヤナギを栽培し、収穫や仕込みを手がけるのは、静岡県富士宮市のクラフトビール醸造所「フジヤマハンターズビール」代表の深澤道男さん(49)だ。「原料となる植物の栽培の容易さや製造コストの面で全国ブランドのビールに勝り、静岡の気候や風土に合うアルコール飲料をいつかはつくりたいと思っていた」という深澤さん。「今回のグルートビールの開発コンセプトと自分の考えが合致した」ため、プロジェクトに参加したという。
ただ、グルートビールが実際にどうつくられていたか、製法が詳しく書かれた文献は見つかっていない。ヤチヤナギの葉や茎にはハーブのような風味があり、実には強い苦みがある。だが、それを実際にどう使ったのか。またビールに欠かせない麦芽や配合するその他のハーブは何が、どのくらい使われたのか。文献に残る記述をパズルのように当てはめて製法を模索する作業は難しいが、深澤さんは「それも研究の一環だと思って楽しみながら、現代の人にも飲んでいただけるようなものに仕上げたい」と、将来の商品化を視野に抱負を語る。
人の輪も広げたい
グルートビール復活の取り組みには、組織や団体の壁を越えて多様な人々が参画している。そんなビールの「人の輪を作る効果」に着目するのは、同県掛川市の掛川東病院院長の宮地紘樹さん(42)だ。「コロナ禍で人と人が会いにくい環境になった。そのつながりを取り戻すための取り組みをしているが、ビールで人がつながるところは面白いと思い、このプロジェクトに参加することにした」という。
大原教授はワインなどビール以外の中世のアルコール飲料についても興味を深めつつ、プロジェクトを今後さまざまな形で地域活性化の関連事業につなげていくことを計画している。地元の博物館「ふじのくに地球環境史ミュージアム」(静岡市)と連携して、市民向けの試飲会やシンポジウムの開催を計画。研究成果の地域還元や新たな地域の特産品づくりに貢献していく考えだという。
中世のビールが現代の飲み物として生まれ変わる。記者自身も、今後グルートビールが市販され、静岡特産の新タイプのビールとして広く認知されるよう願っている。