戦争を考える/中 学徒出陣80年、東京芸大で演奏会/杉原千畝の「命のビザ」公開

「戦没学生のメッセージ」プロジェクトの皆さん。前列中央白シャツ姿が、大石名誉教授=東京芸大演奏芸術センター提供 「戦争を考える」取材班
「戦没学生のメッセージ」プロジェクトの皆さん。前列中央白シャツ姿が、大石名誉教授=東京芸大演奏芸術センター提供

 太平洋戦争終結から78年が経過し、戦争経験者やその遺族は年を追うごとに減少している。戦争の記憶をいかに語り継ぐか。今回は、音楽家としての将来を学徒出陣で奪われた戦没学生の思いを継承しようとする東京芸術大学有志の取り組みと、戦時下に外交官の杉原千畝氏が発給し、数多くのユダヤ難民を救った「命のビザ」の実物公開に託す遺族の願いを紹介する。【「戦争を考える」取材班】

学生の遺作に思いはせ 学徒出陣80年、東京芸大で演奏会

 太平洋戦争後半の1943年、日本は兵力不足を補うため、それまで徴兵が免除されていた20歳以上の文系学生などを動員し、戦地に送り出した。いわゆる学徒出陣だ。音楽学校の学生も例外ではなかった。将来を期待されながら道半ばで動員され、生きて戻れなかった学生が存在する。学徒出陣から80年の節目を迎える今年、戦没学生の残した楽曲を通じ、曲に託した思いに迫ろうというコンサートが開催された。

後世に伝えたい

 コンサートを主催したのは、東京芸術大学の大石泰名誉教授(71)らを中心とする「戦没学生のメッセージ」プロジェクトチーム。学徒出陣で亡くなった学生が残した完成楽曲や、作曲途中の楽譜を探し出して曲に仕上げ、コンサートで演奏したり、アーカイブ化してネット上で公開したりして、後世に伝えていこうという取り組みを2017年から行っている。

 「学徒出陣から80年という節目を迎え、若い人に当時の学生がどういう目にあって、どういう思いをしたかということを知ってもらいたい」。大石名誉教授らのそんな願いに基づき、プロジェクト名を冠したコンサートが8月5日、東京芸大(東京都台東区)内のホールで開催された。コンサートでは、東京音楽学校(現東京芸大音楽学部)在学中に学徒出陣し23歳で死亡した鬼頭恭一氏をはじめ、同校在学中に出征し命を落とした学生を中心とする戦没者の楽曲が演奏された。

鬼頭氏は、音楽を学ぶ学生がいや応なしに戦争に動員され、非業の死を遂げた事実を世に広め、東京芸大側に、学生を戦地に送った事実を再認識させた象徴的な存在の一人。同プロジェクト開始のきっかけにもなった。

 鬼頭氏は同学校で作曲を学んでいたが、学徒出陣により海軍航空隊に入隊。飛行訓練中に事故死した。鬼頭氏は入隊後も作曲を続け、航空隊で作曲した譜面が残されている。その中でも「雨」は、愛する人が戦地に行き、帰りを待つ女性のもとに戦死を知らせる形見が届く――という内容で、穏やかさと力強さの曲調の変化が特徴的だ。

初披露の曲も

 他にも、コンサートでは1932年に同音楽学校内の臨時教員養成所を卒業し、和歌山県の師範学校や高等女学校に音楽の教員として赴任後、徴兵されて戦死した竹之内喜八郎氏の楽曲も初めて演奏された。

 コンサートの出演者でバリトン歌手の関口直仁さん(39)は「このプロジェクトで知るまで、自分の母校に学生を戦地に送り出した事実があることは知らなかった。亡くなられた方々がご存命だったら、どれだけのものがもっと生まれていたのかと思う」と語った。

竹之内氏のひ孫にあたり、コンサートで今回初めて曽祖父の曲を聞いた男性(27)は「戦争を賛美するのではないが、戦地に赴く若者に個人としてのエールを送っているように感じた。戦争は人の命を奪うものであり、ロシアによるウクライナ侵攻で戦争が身近になった今、戦争でどんなことが起こりうるのか真剣に考えていかないといけないと感じた」と話した。

 記者自身、コンサートで実際に曲を聴いてみて、戦時中や戦争直前に作られたとは思えないほど穏やかな曲が多いと感じた。音楽を通して考えることで、資料館などでは分からない、戦時下の人々の気持ちに思いをはせることができた。

アーカイブ化

 これまでコンサートやアーカイブサイトなどで扱われた楽曲は、完成曲、未完成曲合わせて戦没学生5人分で37曲。卒業後に出征して戦死した方や教員、学友などの曲も含めると19人、65曲にのぼる。未完成の曲を完成させるには、東京芸大の在学生や卒業生の作曲家などに協力してもらい、メロディーのつながりなどを考えて楽譜を補う大変な手間をかけているという。

 大石名誉教授は「現在でも多くの楽譜は大学史史料室で所蔵しているが、ただ持っているだけではなくアーカイブ化を進め、より一般の人が利用できる状態にすることが非常に大切」と語る。

 遺族の高齢化が進み、戦没学生の遺作収集は困難さを増しているが、大石名誉教授は「調査対象を本学生以外にも広げつつあり、今後新たな戦没学生の楽曲が見つかる可能性もゼロではない」と話している。【日本大・田野皓大】

「功績、風化させないで」 杉原千畝の「命のビザ」公開 早大で一日限り、遺族の寄贈で実現

イスラエル大使館を通じ、ニシュリさんが得た「命のビザ」を受け取った杉原まどかさん(中央)=東京都新宿区で、「NPO 杉原千畝命のビザ」提供
イスラエル大使館を通じ、ニシュリさんが得た「命のビザ」を受け取った杉原まどかさん(中央)=東京都新宿区で、「NPO 杉原千畝命のビザ」提供

 ロシアによるウクライナ侵攻から24日で1年半が経過した。避難を余儀なくされ国内や国外に逃れた避難民は、全人口のおよそ35%にもあたるという。戦争による難民問題は今に始まったことではない。第二次世界大戦中の欧州でも、多くのユダヤ難民が生まれた。そんなユダヤ難民に日本通過のビザを発給し、命を救った外交官が杉原千畝(ちうね)氏(1986年、86歳で没)だ。その千畝氏が発給した「命のビザ」の実物が、早稲田大学歴史館(東京都新宿区)で7月6日、一日限りで公開された。

「覚えていますか」

 公開された2通のビザのうち1通は、駐日イスラエル大使館の元参事官、ヨシュア・ニシュリさん(91年、72歳で没)のものだ。ニシュリさんは40年、リトアニア・カウナスの日本領事館に押しかけたユダヤ難民の一人だった。ニシュリさんらは、千畝氏からビザを取得後、鉄道でリトアニアを脱出。ナチス・ドイツによる迫害から逃れることができた。

 戦後、外交官となったニシュリさんは、手掛かりもほとんどない中、ユダヤ人が呼びやすいように千畝氏が名乗った「センポ・スギハラ」の名だけを頼りに、かつての命の恩人を探していたという。

 そして68年8月、駐日イスラエル大使館から電話を受けた千畝氏が大使館へ赴くと、そこにはニシュリさんがいた。「これを覚えていますか」。そう言って差し出した1枚の紙こそが、あの時千畝氏が発給したビザだった。ニシュリさんはその場で号泣したという。28年ぶりのこの涙の再会が、埋もれていた千畝氏の功績が広く知られるきっかけの一つとなった。

強い筆圧で鮮明に

 今回のビザ公開は、ニシュリさんの遺族が今年5月、千畝氏の孫でNPO法人「NPO 杉原千畝命のビザ」理事長を務める杉原まどかさんへ、寄贈を申し出たことにより実現した。

 まどかさんは、2019年に開館した「杉原千畝 Sempo Museum」(東京都中央区)をつくる際、世界各地の「命のビザ」受給者の遺族にビザの提供を呼び掛けた。しかし応じた人は少なく、また提供を受けても貸与という形であったため、ビザの寄贈は今回が初めてだという。まどかさんは「本当に驚いた。まさか寄贈していただけるとは思っていなかった」と話した。

 そして6月30日、同大使館を通じまどかさんはビザを受け取った。ニシュリさん宛てのビザには、千畝氏のサインが強い筆圧ではっきりと書かれていたそうだ。「これだけ筆跡が鮮明なビザはあまり見たことがない」という。

 早大で公開したのは、同大は千畝氏の母校であり、もともと同大で晩年の千畝氏がビザを発給した当時の思いなどをつづった手記の特別展示が行われていたため。まどかさんは「特に若い世代に見てほしかった」と話した。

「思い」若い世代に

 イスラエルには、ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺、ホロコーストの犠牲者を追悼する「ヤド・バシェム」という国立記念館がある。ユダヤ人を救った功績をたたえる「ヤド・バシェム賞(諸国民の中の正義の人賞)」を与えられた唯一の日本人が千畝氏だ。「彼の功績を風化させないためにも若い世代へ伝えていき、彼らの胸に刻んであげてほしい」。これまで出会った遺族たちに言われた祈りや思いが、今回の展示へとつながった。

 NPO法人の役割について「祖父が話さなかったこと、話したくても話せなかったことを、私が伝えていかねばならない」と話すまどかさん。国家間、民族間の紛争は今日も絶えることがない。「千畝が直面した人種差別や人の命に対する残虐な行為は現代も続いている。世界が戦争に向かっている時代に一人の日本人外交官が示した行動は、一番価値のあるものだということを理解していただきたい」と語った。寄贈されたビザは今後も早大を中心に展示をしていきたいという。【法政大・園田恭佳】

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