太平洋戦争の終結から今年で77年。しかし戦争は過去のものではなく、世界は今、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻のように、平和に逆行する動きに脅かされているのが現状だ。今こそ、平和の大切さについて考えたい。今年もキャンパる編集部では2回にわたって「戦争を考える」企画をお届けする。初回は太平洋戦争末期の沖縄戦で少年ゲリラ兵として戦った瑞慶山良光(ずけやまよしみつ)さん(93)と、東京大空襲で妹2人を失った在日朝鮮人2世の金栄春(キムヨンチュン)さん(87)に話を聞いた。(「戦争を考える」取材班)
覚悟してくわえた自殺用弾 「少年ゲリラ兵」瑞慶山良光さん、戦後も続いた苦難
太平洋戦争で唯一、地元住民を巻き込む激しい地上戦が行われた沖縄県。その沖縄戦で、当時15~17歳の少年を中心に組織されたゲリラ戦部隊「護郷隊」の隊員だったのが、沖縄本島北部の大宜味村に住む瑞慶山良光さんだ。瑞慶山さんは16歳という若さで、本島中央部に位置する恩納岳(標高363メートル)に陣を敷く第2護郷隊に1945年3月1日、入隊した。米軍の上陸が始まる1カ月前だった。
護郷隊を編成したのは、スパイ戦組織である陸軍中野学校出身者。本島南部を拠点とした沖縄守備軍とは別行動で、ゲリラ戦により米軍をかく乱、疲弊させる役割を担った。動員されたのは本島北部の少年ら総勢約1000人。そのうち約160人の若い命が犠牲になった。
当時の法では、軍への召集年齢は17歳からだったが、兵員不足に伴い志願すれば14歳から入隊できる規則が設けられていた。ただ戦況悪化により、瑞慶山さんらは半ば強制的に入隊させられたのが実態だった。
当時通っていた青年学校では軍事訓練をしていたため、役場から召集された時も「訓練に行くと思った」という。母親が心配して追いかけてくるのを目にした。それでも「日本の軍隊が勝つんだという強い思いがあった」と話す瑞慶山さん。入隊後、敵陣を偵察・監視する斥候役や、爆薬を抱えて敵陣に斬り込み体当たりで戦車を爆破する役割を担う第1次攻撃隊に配属された。
その任務は常に死と隣り合わせだった。斥候任務のさなか、米兵らと鉢合わせしたことがあった。とっさに水たまりの中に潜み、自殺用の手投げ弾を口にくわえた。目の前で命乞いをしていた老夫婦らが砲撃に倒れて犠牲となり、命からがら逃げたこともある。イノシシ狩りの最中に米兵にみつかり、手投げ弾の破片によって右ほおに大けがをしたこともある。そうした過酷な経験を重ね、生き延びることができたことを瑞慶山さんは「奇跡」という言葉で表現した。
部隊が解散したのは45年7月。全身傷だらけで帰郷したが、戦いは終わらなかった。親戚らとの慣れない共同生活が始まったことに加え、戦争の記憶に苦しめられてPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症。幻覚にとらわれ攻撃的になり、集落を荒らし回った瑞慶山さんは、自宅内に親戚が作った2畳の「牢屋(ろうや)」に一時監禁された。
両親の献身的な支えや米国に支給された注射により症状は治まったが、「誰も信じてくれない」孤立は続いた。護郷隊は正式な軍の組織と見なされず、戦後も長くその活動は知られてこなかった。そのためケガの補償や恩給も受けられなかった。戦時中に兵が手を染めた非道の振る舞いについて話をしても、周囲の人は聞く耳を持たない。むしろ「そんな話をして恥ずかしくないのか」と問われることもあったという。
大工や警備の仕事で生計を立て、信仰するキリスト教の教会の管理も手がけた。そして現在は、平和教育を行う非営利団体や辺野古基地移設反対運動に講演会の登壇などを通して協力する。「基地がある限り、また沖縄に弾は飛んでくる」と話す瑞慶山さん。一番の願いは「一緒に沖縄戦を勉強する仲間が増える」こと。「戦争は一時的でないからこそ、伝える責任がある。みんなで苦しみを分け合って荷物を軽くしたい」と考えるからだ。
瑞慶山さんは70歳の時、戦死した仲間を弔うため、リュウキュウカンヒザクラ(琉球寒緋桜)という早咲きの桜を植樹する活動を始めた。植えたのは自宅の裏山で、現在約80本になる。裏山に植えたのは、米軍基地が置かれて現在は入山ができない恩納岳と地形がよく似ていたためだという。
瑞慶山さんは、自ら「桜山」と呼ぶその地で、隊員遺族の集まりを開催しようと意気込んでいる。たこ揚げ大会や食事会も開き、みんなが集う空間になればと思っているそうだ。沖縄返還から今年でちょうど50年。「桜山が故郷のみんなに愛され、沖縄の歴史を伝える拠点になってほしい」。それが瑞慶山さんの願いだ。【早稲田大・榎本紗凡】
朝鮮人犠牲者の実態解明を 東京大空襲 金栄春さん訴え
1945年3月10日。東京の空は絶え間ない爆撃によって真っ赤に染まった。米軍の無差別爆撃で10万人以上が犠牲となった東京大空襲。この空襲では、日本人とともに当時徴用や出稼ぎで在留していた朝鮮半島出身者も犠牲になった。しかし戦後77年が経過しても、その被害の実態は未解明な部分が多い。そうした現状に対して「かつて朝鮮半島を植民地化した歴史に向き合い、公的な調査をしてほしい」と話すのが、同空襲で妹2人を亡くした在日朝鮮人2世の金栄春さん=東京都葛飾区在住=だ。
金さんの父は朝鮮半島南西部の全羅北道出身で、農業を営んでいた。しかし日本の植民地支配の下で施行された土地調査事業で農地を接収されて生活が苦しくなり、16歳の時に一人日本に渡った。その後一度帰郷して結婚、奥さんとともに再度日本に渡り、同墨田区に落ち着き3人の子が生まれた。
東京大空襲の日、当時10歳だった金さんは家族と離れ、学童疎開先の千葉県安房郡の寺にいた。「真っ赤に染まっていた」東京の方角の空を見ながら、家族を思い強い不安に駆られたという。
空襲後、疎開先には子どもを迎えに親たちが次々と訪れたが、金さんの親は一向に迎えに来なかった。「家族は死んだのかと思って泣き果てていた」という。空襲から10日後、ようやく父が迎えに来た。そこで金さんは初めて、2人の妹の死を知ることとなった。
家族たちは、迫り来る火の手から逃げるために母と共に近隣の学校へ避難しようとした。父は当時営んでいた工場の様子を見に行くために、母と妹たちとは別行動だった。金さんの叔父によると、すでに校舎の中は避難してきた人たちでいっぱいで、母と妹たちは運動場内の井戸の中に入ったという。しかし、1歳年下の妹は溺死し、6歳年下の妹は頭巾に火が燃え移ってやけどを負い、1週間後に亡くなってしまった。
その後、金さんの家族は山形県へ疎開し、終戦を迎えた。金さんは、東京朝鮮高校を卒業し、現在は東京都小平市にある朝鮮大学校の1期生として入学。民族教育を修め、卒業後は在日本朝鮮青年同盟に勤務し、在日同胞の暮らしの向上に尽力した。
東京大空襲については若い頃にはあまり関心がなく、両親から空襲の思い出話を聞かされるたびに「ああ、また始まった」と聞き流していた。しかし年を重ね、両親の他界を契機に「妹たちのことを忘れてはならない」と思うようになっていったという。
そんな金さんは2003年、初めて訪れた東京大空襲・戦災資料センター(東京都江東区)で衝撃的な事実を知った。同センターは財団法人が運営する民間の資料館だが、朝鮮人犠牲者に触れた資料や記録がなかったためだ。
金さんらの申し出もあり、同センターは07年から朝鮮人犠牲者に関するコーナーを設置。また同年からは有志の主催で朝鮮人犠牲者の追悼式も都内で行われるようになり、金さんは毎年参列した。19年には参加者に自分の体験や思いを語っている。
しかし、朝鮮人犠牲者の記憶と記録を掘り起こし、後世に引き継ごうという取り組みは十分とは言えず、特に行政の腰が重いのが現状だ。在日同胞の戦後の苦難の歩みを知る金さんは「小池百合子都知事が関東大震災の朝鮮人犠牲者への追悼文送付を取りやめたように、戦後も在日朝鮮人への差別が根強く続いている」と指摘する。それでも金さんは、戦禍を再び招かないために呼びかけ続ける。「かつて戦争で他国と他民族を支配したことから目を背けず、空襲で犠牲となった朝鮮人が大勢いたことを知ってほしい」【中央大・朴泰佑】