戦争を考える/上:作家・仲村清司さん

母の涙に突き動かされ 沖縄戦発信 作家・仲村清司さん

 沖縄で、日本で唯一の一般住民を広く巻き込んだ地上戦が繰り広げられてから75年。県民の4人に1人が命を落としたといわれる悲惨極まりない事実をすぐに思い起こせる人が今日、どれだけいるだろう。沖縄がたどった歴史を若い世代にどう語り継いでいくか。沖縄にルーツを持ち、作家として沖縄の文化や歴史、辺野古新基地をはじめとした沖縄が現在抱える問題を発信し続けている仲村清司さん(62)に話を聞いた。

 仲村さんの両親は沖縄生まれだが、仲村さん自身は大阪生まれ。大学卒業後は東京でフリーの編集者として暮らしていた。そんな仲村さんが沖縄移住を決断したのは1996年。38歳の時だった。沖縄問題の勉強会で沖縄出身の青年たちと出会い、関わりを深めるうちに、沖縄のことをさらに知りたいという思いが募ったという。

 仕事を辞めて沖縄に渡り、その年から編集者の経験を生かして文筆活動を開始。これまでに30冊近くの本を出版しているが、代表作は「沖縄学」「消えゆく沖縄」など。沖縄の精神風土や土着文化、県民気質に焦点を当てた作品などで知られる。

 沖縄戦の戦禍についてはもちろん知っていた。ただ、その記録と記憶を語り継ぐ重要性に改めて気づいたのは、2007年。両親を連れて、沖縄県糸満市にある平和祈念公園を訪れたことがきっかけだったという。

 それまで戦争の話を家族にすることはめったになかった母(88)が、戦没者の氏名を記した刻銘碑を前にして、突然、泣き崩れた。幼くして亡くなった、彼女の弟の名前を見つけたからだ。ともに逃げたのに、自分だけが生き残った。必死で守ろうとしたのに、守れなかった命。「あのとき自分が死んでいればよかった」と声を震わせた。初めて見る母親の慟哭(どうこく)。過去に体験したことのむごさが想像された。そして「いやすことのできない、心の傷を抱えながら母が生きていたことに、ずっと気づけなかった自分を恥じる」と話す。その悔恨の念が、仲村さんを突き動かしている。

「身の回りのことでも深掘りすれば、戦争との関わりが見えてくる」と話す仲村清司さん=仲村清司さん提供

 現在は京都で暮らす仲村さんだが、今も週に1度、沖縄を訪れ沖縄大学で文章論の講義をしている。しかし、沖縄戦について「語り継ぐことは容易ではない」と仲村さんは言う。沖縄戦生存者の高齢化が影響し、語り手が減っていることは確かだが、もっと問題なのは、語り手と、聞き手である若い世代との間に認識のずれが出てきていることだという。

 沖縄では、3カ月に及ぶ地上戦の末、組織的戦闘が終わった6月23日を「慰霊の日」と定め、休日にして戦没者を弔う。その日が近づくと沖縄の大学では自主的に平和学習に取り組む。仲村さんも15年近くこの学習に携わってきた。しかし近年は「沖縄戦の話にアレルギーを示す学生が増えた」と強く感じるという。語り手の側が熱い思いを語っても、学生から見れば過去の出来事でしかない。強く訴えかけられると逆に拒絶感を抱いてしまうのだ。

 そのギャップを埋めるためには「表現者の側が沖縄戦の継承の仕方を工夫しなければならない」と仲村さんは力を込める。戦争を体験していない自分が、あたかも知っているかのように語っても聞き手は興味を持たない。だから、「予備知識を持たない聞き手と同じ目線を常に意識しながら、ともに戦跡を訪れたりすることで、より関心を持ってもらえる」と話す。これは表現者としての仲村さんのモットーでもある。

 関東在住の学生にも、メッセージがある。辺野古の新基地建設問題一つとっても、沖縄の人々の怒りの根源は何か、掘り下げていけば沖縄戦にたどり着く。「本土にいても沖縄戦への理解を深めることは十分にできる」と強調する。「戦後の出発点や歩みに違いはあるが、沖縄も日本。これ以上、本土と沖縄の溝を深めてはいけない」と訴えた。【千葉大・谷口明香里】

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