2019/08/27 戦争を考える(下・1)

「戦争を考える」取材班

元特攻艇員、忘れぬ兄の訃報

 太平洋戦争末期、海軍の水上特攻艇「震洋」が攻撃の任務を引き受けた。震洋は、ベニヤ板製のモーターボートに爆弾を付けて突っ込み、相手もろとも爆破する特攻兵器だ。航空機による神風特攻隊はよく知られているが、船艇での特攻隊はほとんど知られていない。静岡県熱海市議で、全国最高齢市議でもある山田治雄さん(92)は、震洋の元特攻隊員の一人だ。体験を語ってもらった。


 熱海市出身で、東京の帝京商業という旧制の中学校に通っていた山田さん。そこには軍人が配置され、いかに軍人になることが良いことかという軍事教育が行われていた。

 その影響もあり、1943(昭和18)年、航空隊を志願した。父の反対もあったが説得し、その年の10月に試験を受けた。そして、甲種飛行予科練習生の14期(1次)に入隊し、三重航空隊奈良分遣隊に配属される。

 奈良分遣隊では、偵察要員として航法や信号の勉強をした。しかし何より求められたのは体力であり、フルマラソンより長い45キロ走などの過酷な訓練もあったという。敵を常に想定し「負けることは死ぬこと」や「天皇のために死ぬことは光栄」という教育を徹底して受けていた。

 敗戦の色が濃くなり始めた45年5月、茨城県の土浦海軍航空隊に転属した。その1カ月後には特攻編成があり、山田さんは、特攻編成に志願した。しかし上官に「お前は特攻要員はダメだ」と却下される。なぜなら、山田さんの兄弟は3人(兄2人)とも海軍所属で、山田さんが肺炎を患っていたためである。しかし、軍国少年であった山田さんの希望が通り、震洋の特攻要員になることができた。

 震洋の要員に決まり、土浦の航空隊の人に別れを伝えに行こうとした日の朝、第1次警戒配備という戦闘態勢を示す警報が出された。総員退避が命じられ防空壕(ごう)へ向かった。そこで猛爆撃を受ける。山田さんのいる分隊が先に入るはずだったが他の分隊が既に入っていた。何発も爆弾を落とされ防空壕はつぶれてしまう。先に入った分隊は162人も亡くなってしまった。

終戦後、出番がなくなり放置された水上特攻艇「震洋」

 同年6月、小富士海軍航空隊へ震洋の隊員として入隊。そこでエンジンの勉強や通信の助教員を経験した。

 震洋は1~2人乗り用の木製のモーターボートで、約250キロの爆薬を搭載し、敵艦船に体当たり攻撃を図った。激突すれば確実に死を迎えてしまう。終戦まで約6200隻が製造された。フィリピンや沖縄で使われ、本土決戦のため国内にも配備された。

 山田さんは、7月末に震洋の訓練が打ち切られ、米軍の上陸に対抗する対戦車攻撃に入った。穴を掘り、竹のさおの下に地雷を付け、戦車が来たら突っ込む。もちろん自身も吹き飛んでしまう。そうした訓練を2週間以上行った。山田さんも必死で食らいついた。

 そうして終戦の8月15日を迎え、上官に集合を命じられる。「玉音放送を聞いたが内容がよく分からなかった」と山田さんは振り返る。昼飯の時に「負けたらしい」という話が聞こえてきた。「負けるはずがない。ごまかされるか!」と、近くの学校に立て籠もろうとしたが上官に止められた。天皇の玉音放送であったため、敗戦という事実を認めざるを得なかった。震洋での出撃の出番はなかった。

 その後、家に帰ると2番目の兄が戦死したと伝えられた。兄弟の中で一番仲良しであったため、「敗戦より、兄の死のショックがいまだに忘れられない」と語る。

 山田さんは熱海市議として、75年に当選してから45年目12期を数える。「市民が主人公」という思いのもと活動している。その根底にあるのは、「人民に学ぶ」という政治姿勢や、いまだに問題になっている戦争の歴史認識や責任に対して「事実をはっきりさせる」という思いである。

 徹底した軍事教育のもと、海軍で訓練を積んでいた山田さん。自らの命をかけるベニヤ板製の特攻艇に何の抵抗も感じなかったということに、「教育」というものが行動に大きく関与していくのだと感じた。山田さんは「今思うに、一番大切な人づくりに反している。再びあってはならないこと」と述べた。「今は、人の命をいかに大切にするかという思いを忘れずに活動している」と静かに語った。

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