2019/08/13 戦争を考える(中・1)

「戦争を考える」取材班

奄美群島の92歳 「米軍統治下」を語る

 「東洋のガラパゴス」とも称される鹿児島県の奄美群島。この島々が戦後、沖縄諸島とともに米軍統治下に置かれたことはあまり知られていない。本土復帰は1953(昭和28)年12月25日。「クリスマスプレゼント」として米軍から解放された。奄美大島在住で当時を知る、取材班の記者の父方の祖母の姉、永田スタヱさん(92)を訪ね、長男の永田豊秀さん(68)と一緒に話を聞いた。


 「青春はすべて戦争にささげたよ」。スタヱさんは島特有のイントネーションで話す。17歳で、女子挺身(ていしん)隊の一員として福岡・博多に派遣された。動員までは、奄美の特産品である大島紬(おおしまつむぎ)を織る暮らし。紬織りで手先が器用だった島の女性はよく動員されたという。

 派遣先は紡績工場だったが、戦争により軍需工場に。飛行機の部品溶接のためたくさんの女学生が働いた。厳しい冬でも、草履しか履くものがなかった。「お国のために」。その一心でがむしゃらに働いたそうだ。

 島に帰ったのは1年後。18歳になっていた。だが終戦を迎えてもなお、奄美の戦いは終わらなかった。46年2月2日、沖縄や奄美を含む北緯30度以南を米軍統治下に置くという宣言が出されたのだ。沖縄のような地上戦を経験していない奄美の人たちにとっては、寝耳に水のこと。「ただ、生きるのに精いっぱいだったから」。スタヱさんは米軍統治下の生活を話してくれた。

 突然本土とのつながりが絶たれた奄美群島。スタヱさんが住んでいた奄美大島でも「B円」という新しい紙幣(米軍発行の軍票)がつくられ、本土に行くにもパスポートが必要になった。当然物資の供給も滞り、食糧難に見舞われる。島の人たちは飢えをしのぐため、ソテツの実や芯を粉にしておかゆなどに混ぜて食べることもあった。

 当時、島では本土復帰を求めて、マハトマ・ガンジーの非暴力運動にならい断食(ハンガーストライキ)などの運動が拡大。その一方で、スタヱさんは「土地も持たない私たちは貧しくてそれどころじゃなかったのよ」と静かに語る。米軍の存在もまるで雲の上のようなもの。関われるのは土地などの財産がある人たちに限られていた。

 スタヱさんは占領下で島の男性と結婚。今は亡き夫との間に1男4女を授かった。厳しい生活のなか一家を支えたのは日本からの輸入品。港で日本からの荷物の積み下ろしをしていた夫は、よく「おこぼれ」をもらってきてくれた。「今でいうと、盗んでいたようなものだよ」。こっそり物資の一部を持ち帰っては日々の暮らしの足しにしていたのだという。

 過酷な日々に翻弄(ほんろう)されながらも、奄美の本土復帰はいつも願っていた。「侵略(占領)されたときの島の人たちの気持ちをうたった歌を今でも歌えるよ」。そう言って歌ってくれたのは「名瀬セレナーデ」。

 泣いているよな 名瀬港
 泣いているよな 名瀬港

 歌詞が記者の耳に残る。明るいメロディーながら、日本に戻る日を夢見る島人(しまんちゅ)たちの切ない思いが胸に迫った。

「戦争だけは、もう二度と……」

 今年3月には、奄美大島に陸上自衛隊の駐屯地が新設された。中国の南方進出を警戒するためといわれる。過去の戦争を連想してしまうのではないか。特殊な歴史を持つ奄美群島だからこそ、思いを聞いてみた。スタヱさんは「自衛隊は、良いことかも分からん。この国を守るためっちゅう気持ちがあれば」と話す。「でも、もう戦争だけは、もう二度と……」。つぶやくように口にした。

 「今の暮らしが信じられないよ。こんな幸せな生活をさせてくれてありがとう」。隣で話を聞く、息子の豊秀さんに感謝していたスタヱさん。その言葉の裏には、戦争に大切な人や青春を奪われた事実があると感じた。

 奄美群島が持つのはエメラルドブルーの海だけではない。過酷な占領の歴史を、これからも見つめ続けていこう。そう強く思う記者だった。

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