太平洋戦争の記憶を伝えようと、毎日新聞東京本社「キャンパる」編集部が総力を挙げて取り組む「戦争を考える」企画。2回目の今回は、撃沈された学童疎開船「対馬丸」の生存者救助に携わった奄美大島の大島安徳さん(94)と、将校の娘として戦中、戦後を生きた溝口不二子さん(93)の回想をお届けする。
「語り継ぐことが自分の使命」
九州の南方海上、鹿児島県の奄美大島西部に位置する宇検村。白波の立つ東シナ海に向かって「対馬丸慰霊之碑」がたたずむ。同碑から北東約140キロの悪石島沖合で、学童疎開船「対馬丸」が米軍の攻撃を受けて沈没したのは1944(昭和19)年8月22日。当時、流れ着いた生存者の救助や、遺体の埋葬に携わった大島安徳さん=同村在住=を訪ねた。
村民たちが救助活動に奔走したのは、沈没から6日後のこと。生存者2人が漂着、村に助けを求めに来た。発見者の伝言を聞いた区長の指示で、安徳さんは村の集会所まで走った。区長の隣家に両親、姉妹と5人暮らしだった安徳さんは当時17歳。「(集会所の)ガジュマルにぶら下げられた半鐘を、木づちでガンガンたたいた」という。
安徳さんの非常呼集の合図で集まった青年団員らは、生存者の話を頼りに現場へ陸海路を急いだ。安徳さんは伝馬船に乗って急行。同村全体で、いかだなどにつかまっていた21人を救出した。「私に抱きついて『ありがとう、ありがとう』と叫んでいた生存者の涙声が、今でもよみがえります」と話してくれた。
だが救助作業が一段落した数日後には村に憲兵が現れ、村民たちに厳しいかん口令が敷かれた。「『絶対にこのことを口外するな』ってね。恐ろしかったですよ。憲兵っていうのは。刀を抜いてね」と当時の心境を話した。
さらに数日後には、流れ着く遺体の埋葬作業に追われた。サメに食われたのか、夏の強烈な日差しのせいか。損傷の激しい遺体が多かったという。「まともな感覚ではとても埋められない」と、酒をあおって嗅覚をまひさせながらの埋葬作業だった。
8月21日、沖縄県の那覇港を出た対馬丸には1788人が乗船。そのうち834人は疎開学童だった。船は米潜水艦による魚雷攻撃を受けて沈没。犠牲者は少なくとも1484人とされている。
当時、旧制鹿児島県立大島中学校(現在の鹿児島県立大島高校)の5年生だった安徳さん。事件後はかん口令を「かたくなに」守りながら、旧制県立鹿児島医学専門学校(現在の鹿児島大学医学部)を目指し勉強に没頭した。
島で行われた筆記試験には合格したものの、その夢はとうとうかなわなかった。本土での口頭試問・身体検査のため乗船予定だった最後の連絡船、ルソン丸が米軍の空襲で沈没したためだ。現場に居合わせた安徳さんは、2日かけて来た道を泣く泣く帰ったという。
終戦を経て隣の集落の郵便局に就職後、安徳さんは青年団での文化活動に没頭。トルストイやガンジーの輪読会や、弁論大会を催した。戦後、沖縄とともに米軍占領下にあった島の祖国復帰を渇望していたという。53(昭和28)年12月25日の「クリスマスプレゼント」とも言われる本土復帰に対しては、「それはもううれしかった。国旗を手に集落を練り歩きましたよ」と顔をほころばせた。
発生当時に軍が秘匿し、いまだ被害の全容が分からない対馬丸事件。出航の経緯などを安徳さんが知ったのも戦後だった。自らの体験を長く口外しなかったが、事件を忘れたわけではない。「遺骨捜しに来た遺族が、せめて砂でもとかき集める姿に、涙が止まらなかった」
安徳さんが沈黙を破り、記憶の継承に取り組んだのは宇検村の郷土誌の取材・編集作業においてだった。執筆責任者だった安徳さんは、対馬丸事件についても住民に聞き取り調査を実施。生存者や遺族の訪問にも同席して、貴重な証言の収集に尽くした。750ページ以上に及ぶ郷土誌の完成までには13年を費やし、96(平成8)年に刊行された。その後は2017(平成29)年の慰霊碑建立にも情熱を注いだ。
「語り継ぐことが自分の使命だと思っている」と話す安徳さん。編集後記には、こんな言葉を寄せた。「私たちは、歴史によってつくられるが、私たちもまた歴史をつくっている」。後世に恥じない平和を残せるのか。そんな問いを与えてもらったように思う。【筑波大・西美乃里】
戦中、戦後生き抜き「よくここまで来た」
生死の境をさまようだけが戦争体験ではない。終戦の日を境に戦争が跡形もなく消えるわけでもない。日常の話は記録に残りづらいが、戦前から戦後、一般国民は銃後でどう暮らしたのか。海軍将校を父に持ち、父親不在の戦時中、そして父親が公職追放された戦後の苦しい暮らしの中で奮闘した溝口不二子さん=鹿児島県伊佐市在住=に、当時の話を聞いた。
不二子さんは広島県の軍港・呉で生まれ育つ。7人きょうだいの長子だった。高等女学校2年だった13歳の時に太平洋戦争が始まる。「戦闘状態に入れり」というラジオの声がアイスキャンディー屋から聞こえた。「大きな国と戦争して大丈夫だろうか」。しかし、華々しい戦果を聞くうちに、「負けるものか」と思うようになった。
女学校では農作業をしたり、陸軍士官の襟章を縫ったりする日々。遊び半分で作業し、学校に戻ってから同級生らが農家の人からおやつをもらったという話で盛り上がったこともあった。
家には、軍艦の機関長を務める佐官だった父親の部下たちが年中遊びに来た。配給で食糧が少ない中、母親は士官さんたちにはたくさん白飯を出し、子どもらはうどんの切れ端でかさ増ししたご飯。よく遊びに来た士官さんを、新聞で見かけたこともある。真珠湾攻撃に出撃した特殊潜航艇の乗員だった。
1944(昭和19)年に女学校を卒業後、先に転勤していた父親を追って、日本統治下にあった朝鮮半島の平壌に渡る。女学校は卒業後の徴用先を決めていたため転居に難色を示し、呉を離れるのに苦労した。
平壌では燃料生産拠点である第五海軍燃料廠(しょう)に勤務。従業員に賃金を渡す仕事を担当した。職場には日本人も朝鮮人もおり、朝鮮人労働者の低賃金を目の当たりにして「気の毒だなあ」と思った。それでも、平壌が最後の平和な時間だったという。職場の士官との結婚話もあったが、乗り気ではなかった。「16歳だもの。いくら、よかにせどん(美男子)でも嫌じゃった」
45(昭和20)年3月、再び父親の転勤で本土へ戻る。しかし帰港地の福岡・門司で父親がトランクを盗まれてしまった。「国のために働く軍人から荷物を盗むなんて、もう日本は負けるな」と思ったという。父親は任地の第四海軍燃料廠(福岡県)に単身で赴き、残る一家は、父方、母方の実家のある鹿児島へ向かった。
鹿児島に来て一番つらかったのは、青年団の勤労奉仕で20キロ近いセメントの袋を担がされたこと。そして終戦。父親が任地から帰ってきたのは、9月の十五夜のころ。弟や妹は喜んだが、不二子さんは安心のあまりわんわん泣いた。
生真面目な父親は軍の物資を持って帰らなかった。それを見た知人から布や手縫いの白いワンピースが届く。服がなかったので、畑仕事もワンピース姿。近所の男の子からは「白か服で畑打ちをしよる」と世間知らずのように言われた。
公職追放を受けた父親はみそ屋で働き始める。しかし収入は足りず、妹や弟の学費は、母親が行商をして出した。鶏を飼い、庭で茶を育て、卵や茶を売って歩いた。1キロほど離れた小さな畑で根菜類も育てた。妹や弟は学校があったので、不二子さんが畑仕事を頑張らないといけなかった。
それでも食糧は足りず、母親が戦時中に不二子さんの嫁入り支度としてそろえていた着物を売り、米を手に入れた。終戦から10年たっても苦労は終わらない。57(昭和32)年に結婚した時もお金がなかった。嫁入り道具のタンスは、庭の木を切り、大工さんに持ち込んで作ってもらった。
今は1人暮らしの不二子さん。かつての自分には「よくここまで来たね」と声をかけたいという。病気もせず、戦後のつらい畑仕事を乗り越えた。苦労したが「死なずに済んだから、幸せだと思わないといけない」。平壌にとどまり、戦後に処刑・抑留された人も多い。
父方の大伯母で、いつも記者を孫のように迎えてくれる不二子さん。戦争体験を聞くのは初めてだったが、優しさの裏にある強さを知ることができた。【慶応大院・瀬戸口優里】