太平洋戦争の終結から今年で78年。かつて国民を巻き込んだ戦禍の記憶をいかに継承していくか、難しさは年を追うごとに増している。その記憶を受け継ぐために、今年も「戦争を考える」企画をお送りする。初回は、女学校時代に原爆投下で多くの学友を亡くした米吉喜代子さん(91)と、茨城県の霞ケ浦湖畔で航空隊跡地の保存に取り組む団体を紹介する。【「戦争を考える」取材班】
被爆の記憶今も 運が良かったとは言いとうないんよ。死んだ人に悪い。 広島市在住・米吉喜代子さん(91)
米吉喜代子さんは1932年に広島市の中心街、現在の中区で米屋を営む一家の長女として生まれた。45年4月、広島県立広島第二高等女学校に進学。原爆が投下された8月6日は、第二県女の生徒のうち米吉さんを含む1年生100人全員と、2年生の半分の50人、計150人が朝から市内の東練兵場で畑の草取り作業に動員されていた。爆心地から2・5キロ離れた場所だった。
突然の光と熱さ
「頭の上にB29が来とるよ」。生徒の一人が米軍の爆撃機B29の飛来に気づいて叫んだ。しゃがんで裸足で作業をしていた米吉さんは突然、強烈な光と熱さを感じた。米吉さんは目と耳を塞いで、地べたへかがみこんだ。
どのくらい時間がたったのか分からない。友人たちの泣き声や叫び声に気がついた。初めて目を開けてみたら、爆風で真っ暗闇だった。1メートル離れた場所にいた友人は全身やけどで皮膚が垂れ、目は見えなくなり、足は動かせなくなっていた。声をかけても、立ち上がることはできなかった。米吉さん自身も背中にひどいやけどをしていた。
どっちを向いて逃げようか、うろうろしていたら、先生が「ついてこーい!」と大声で呼びかけるのが聞こえた。先生は約20人の生徒を、山の上へ避難させた。そこにどのくらいいたのかも分からない。ただ、広島市内の大火が下火になったのを見計らい、解散になった。
眼前広がる惨状
家を目指す途中、川にかかる鉄橋を渡ろうとした時、数メートル下の川には水が見えないほど人が浮いていた。「やけどした人やらが皆、川に入って流されたり、飛び込んだりして、息絶えた人がいっぱい浮いていた」
火事のせいで熱くてたまらなかった。米吉さんは裸足で歩き続けた。途中、救護所が開設されたと教えられた小学校に到着すると、体にガラスが刺さって、まるで幽霊にしか見えない人たちが行列していた。恐ろしい光景だった。米吉さんの症状も重かったのだが、「私のような軽いやけどの人間が並んだらいけん」と思い直し、列に並ぶのを諦めた。
校舎の壁に背中をつけて一夜を明かした。校庭にいっぱい穴が掘ってあり、死んだ人が山積みにしてあった。石油をかけて火をつけて、夜通し人を焼いて片付けていたようだ。その場所で、2000体焼いたのが分かっている。
翌朝、やけどの痛みをこらえながら再び歩き始め、かろうじて焼け残った家で、父と再会することができた。他の兄弟もみな疎開で広島市を離れていたため、家族全員無事だった。
米吉さんと一緒に農作業をしていた同級生らは、全員、多かれ少なかれやけどを負った。また6日の当日、米吉さんら草取り組とは別行動で、爆心地から寄り近い建物の取り壊しに従事した生徒39人は、ほとんどが死亡した。「運が良かったとは言いとうないんよ。死んだ人に悪い。死んだ人は運が悪いことになってしまう」。多くの学友を亡くし、自分が生き残ったことについて、米吉さんは過去にこう述懐している。
体験語り継ぐ
米吉さんは終戦後、女学校に復学し、卒業後に結婚。その後、長男と長女を出産し、現在も広島市内の自宅で暮らしている。
米吉さんは80歳になる前、広島市の平和団体で被爆体験を語り継ぐ活動にも参加した。新型コロナウイルス感染症の流行をきっかけに、語り部は引退したが、日課である毎朝の広島平和記念公園付近のウオーキングでは道行く旅行者に、今も被爆体験を話す機会があるのだという。「生きとる者の務めとして、一人でも多くの人に伝えたい」と語気を強めた。
原爆投下から78年。広島では今年5月、G7サミットが開催された。世界の主要国の首脳が初めて広島に集い、原爆死没者を慰霊し、平和記念資料館に足を運んだことについて、米吉さんは「成功とは言わないけど、良かったと思っている」と感想を語った。被爆地の思いは、一朝一夕では世界に届かない。「ああいうことはひとつひとつ積み上げていくもの」と米吉さんは話した。【成城大・中薗三奈】
「観光資源化」で継承図る 鹿島海軍航空隊跡地 茨城の団体、奮闘
茨城県の土浦駅で自転車を借り、霞ケ浦のほとりを走ること2時間弱。目の前に現れたのは、同県美浦村が「大山湖畔公園」として整備を進めてきた旧海軍の航空基地の廃虚、鹿島海軍航空隊跡地。7月22日に一般公開が始まった国内でも有数の規模の戦争遺跡だ。
訴え実り史跡化
基地は水上機訓練のために開設された。終戦後は医療関係の施設として利用されたが、1997年の閉鎖後は放置されていた。不法侵入が絶えず、庁舎や発電所など計4棟残されていた建物は荒廃したが、2016年に同村が国から跡地約4ヘクタールを購入、公園として整備することにした。
そんな跡地を戦争遺跡として保存するべく立ち上がったのが、「プロジェクト茨城」という団体だ。同団体は、10年ほど前から同県笠間市の筑波海軍航空隊跡地の保存活動にも携わった実績があり、映画やドラマのロケなどを誘致する事業も手がけている。
「これまで貴重な戦争遺構がどんどん失われている現状を打開して、次の世代に戦争の記憶を継承しなくてはという思いだった」。同団体の金沢大介代表(52)は保存活動に乗り出した理由をこう説明する。跡地は当初、フットサルコートなどの整備が想定されていたが、同団体は戦争遺跡として保存し、観光資源化することが村の発展にとって有益であると強く主張。その結果、同団体が指定管理人となって史跡公園として整備する方向が固まった。
まず知ってもらう
戦争遺跡の保存活動には多くの課題がある。保存や維持にかかる費用については、筑波海軍航空隊跡地保存活動のノウハウを生かし、昨年に実施したクラウドファンディングで約1000万円を調達。荒らされた庁舎の修繕活動や、見学者のための通路整備、チラシ配布を実施している。
訪れる人をどう確保し増やすかも大事な課題だ。筑波航空隊跡地では、隊をモチーフとしたグッズ販売や映画やドラマのロケ、コスプレイベント誘致などが功を奏し、県外からも多くの訪問客が訪れるようになった。金沢さんは鹿島海軍航空隊跡地でもこの経験が生きると自信を見せる。幸い、鹿島航空隊跡地は、全国的にみても珍しいほど当時の施設が良い状態で残っているため、「戦争に興味の無い人でも当時を想像しやすく、親しみやすい特長がある」と金沢さんは言う。
戦争遺跡の観光利用には否定的な意見もある。それでも金沢さんにためらいはない。そこには画廊運営を本業としている金沢さん自身の経験が強く影響している。
地方にはかつて各地にそれぞれ多くの優れた画家がいた。けれども、人々が彼らの絵に関心を向けなくなった途端、絵の価値がなくなり状態が悪化したものは廃棄されてしまう。そんな現実を金沢さんは目の当たりにしてきた。「美術の世界で見てきたことは戦争遺跡にも当てはまると思う。まずは知ってもらわなければ仕方がない。世の中の関心を失えば遺跡のみならずその歴史までも失われてしまう」と強調する。
公開は「通過点」
そのうえでこうも話す。「戦争の遺物を観光に使うことに賛否があるのは理解できる。正解はないが戦争遺跡の活用について議論が巻き起こってほしい。賛否があったとしても、結果として遺跡が残りそこを拠点にさまざまな証言や資料、人々が集まり継承が図れるならそれでいいと思う。まずは存続するための理由が必要だ」
展示はありのままを見せることを意識し説明を控えめにしている。記者も1時間ほどかけて敷地内を自由に見学させてもらった。実際に戦争遺跡に足を踏み入れることで本当に戦争というものが存在したのだとリアリティーをもって受け止めることができた。
跡地は毎週土、日の午前9時~午後5時に開園されている。入場料は大人800円、小中高校生300円。ガイドによるツアーは午前10時と午後2時。【上智大・清水春喜】