大学の卒業式も終わり、新生活がいよいよスタートするこの季節。前回に引き続き、思い出深い学生生活に別れを告げ、それぞれの道へ踏み出していくキャンパる編集部の卒業生たちに、今抱く思いをつづってもらった。
ささやかな奮闘 上智大 川畑響子
140字しか書けないツイッターが苦手だった。数行で伝わる、訴求力のある言葉が出てこない。友人とのチャットはいつも気を使った。ポンポンと交わす言葉や絵文字選びは、自然と相手の調子に合わせてしまう。だから、自分らしくいられる600字前後の小欄が好きだった。
文章の構成から言葉遣いの一つ一つに至るまで、最低でも2週間かけて向き合い、考える。書きながら、自分の中でふわっとしていた思いが固まっていく。もやっとしていた視界がひらけていく。
「自分の奥深くまで旅して、心のひだに触れるように」。前編集長は、コラム執筆の極意をそう表現した。自分を中途半端に書くことを許してくれない場所。必死に書いたからこそ、読み返せば、当時の悩みも決意もありありと思い出せる。
どんな人が読んでいるのかわからない。誰も読んでいないかもしれない。ただ、お金を出さないと読めない夕刊の、小さな枠のささやかな奮闘を誰かが見てくれていたと思うだけで、それはSNSの気軽な「いいね」より、ずっとずっとうれしい。
4月からは放送局に就職して、番組制作に携わる。インパクトはないかもしれない。万人受けする表現ではないかもしれない。でも誰かが応援してくれるような言葉を、思いを、届けていきたいと強く思う。
強い意志で学ぶ 千葉大 谷口明香里
大学はとても平穏な環境だった。これは大学生活を通して一番感じていることだ。もちろん、大変なことは山ほどあった。テスト前の追い込みにサークルで大役を任された時。しかし、どれも自分自身の努力次第で乗り越えられた。
こう言えるのも、高校卒業までの鍛錬があったからだと思う。私の周りには常に「競争」や「順位」が付きまとっていた。勉学、行事、部活、事あるごとに順位が付けられた。目標に届かなくても次こそは!とはい上がろうとしている自分がいた。
しかし大学では、学友とは切磋琢磨(せっさたくま)し合う仲にならぬまま4年間を終えた。一人一人目指すものが違ったのだ。専門を突き詰めた最後の1年は、誰も足を踏み入れていない領域の中で迷子になった。自分を奮い立たせてくれる他者がいない環境は自分には不適だとつくづく実感した。
そんな私に発破をかける出来事が起きた。それは先月始めた、ミャンマー在住の大学生にオンラインで理科を教えるボランティア。彼らはクーデターのため大学に戻れる見通しがなく、日本で再進学を希望している。未来が約束されない中でも強い意志を持って学ぶ彼らの姿に、強い刺激を受けた。私は修士課程に進み、さらに研究を続ける。壁に何度突き当たっても、まだ誰も明らかにしていない新しいことをつかみとれるように精進したい。
柔軟さは失わぬ 東京学芸大 中尾聖河
学校生活を振り返るといつも心がざわつく。一番の理由は、学校でうまく立ち振る舞ってこられなかったから。小中高と、学校というシステム自体に適応できなかったと感じているからだ。良い思い出もあるはずなのに、苦い思い出ばかりが思い浮かぶ。
教員志望の多い大学に在籍しているせいか、同級生の多くは学校に対して良い印象を抱いている。だから、学校に問題があるというよりむしろ、居心地の悪さを感じていた私の方に問題があるのだろう。結局この年になっても、学校が好きになれないままだ。
それでも大学まで進学したのは、学生という立場が好きだったからだ。学生という肩書があれば、どんな人にでも会えるような気がした。そして実際、学びたいと思ったことにもたやすくアクセスできた。特に休学したときには、学生という肩書が身元を保証してくれる心強いお守りとなった。
しかしこのお守りはもうすぐ手放さなければならない。今私は、「やっと学校から離れられる」という思いと、「学生をまだ続けたい」という、矛盾した思いを抱いている。4月からは社会人という新たな肩書がつく。学生という肩書は外れても、お守りを持っていたときの、何にでも染まることのできる柔軟さは失いたくない。学びは、これからも一生続いていくのだから。