第99回箱根駅伝 法政大、粘りでシード権

箱根駅伝取材班

 2、3日に行われた東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)。毎年、注目チームや選手を取材し、紹介してきたキャンパる編集部は今回、練習の雰囲気がよく、全員で切磋琢磨(せっさたくま)してチーム力を高めてきた法政大学に注目。8年連続83回目の出場となった同校は、激しい順位争いの中で粘り強さを発揮して往路8位、復路3位の総合7位と健闘し、2年連続でシード権を手にした。節目の100回を目前にし、沿道の大観衆の応援風景が復活した今大会。晴れ舞台に挑んだ同校の出場選手、サポートメンバー計4人の思いをまとめた。(写真は千葉大・谷口明香里)

家族や友人に支えられ 松本康汰(こうた)選手(4年)

 「最後の箱根駅伝になるので、今までより思いはずっと強い」。ケガによる雌伏の一年を乗り越えた松本選手が今大会を前に話していた言葉だ。

 松本選手が頭角を現したのは2年生の時。2020年10月の箱根駅伝予選会ではハーフで自己ベストを更新した。予選の勢いを買われ本大会にも出場。法政大の次期エースとしての期待も大きかった。

 しかし、21年は一転して苦難の年となった。1月に負傷した影響で5月ごろまで走ることができなかったためだ。夏合宿からなんとか練習に合流したが、ケガの影響が続き、箱根駅伝の予選会でも不振。3年生での箱根駅伝出場はかなわなかった。「22年の箱根駅伝は、ただ応援しているだけで悔しかった」と険しい表情を見せた。

 そんな松本選手の支えとなったのは、連絡をくれたり、気分転換に外に連れ出してくれたりした家族や友人たちの存在だ。「これまで支えてくれた人たちへの感謝を、走りで体現したい」と話していた松本選手。しかし2年ぶりの箱根駅伝出場はかなわなかった。16人の登録メンバーには選ばれ、3区にエントリーされたものの、レース当日の変更で出場メンバーから外れたのだ。コンディション不良が原因だった。「本当に悔しかった。最後の最後で何をしているんだろう。すごく自分を恨んだ」と無念さを口にした。

 だが「康汰の分も走るよ」という同期生の言葉を胸にチームのためにできることをしようと切り替えた。往路は3区で川上有生選手の付き添いを、復路は9区で中園慎太朗選手の給水補助を担当した。チームのサポートに徹した最後の箱根駅伝。松本選手は「今まで頑張ってきたチームの集大成だったし、同期生の最後の走りにすごく感動した」と仲間の健闘をたたえた。

 卒業後は花王で実業団選手として陸上を続ける予定だ。今後の目標について「大学生活での悔しさを忘れず、ニューイヤー駅伝、日本選手権などを目標に頑張っていきたい」と、さらなる高みを目指す覚悟を口にした。【中央大・朴泰佑】

応援糧に走り切れた 扇育(はぐみ)選手(4区・4年)

 活躍を期待されながらケガに苦しんできた扇選手が、最終学年で初めて箱根の大舞台に立った。

 長崎・対馬出身の扇選手。中学校時代はテニス部だったが、進学先の同県立松浦高校で脚力を買われ、本格的に陸上競技を始めた。大学は法政大を選んだ。同校出身で長距離の名ランナーとして活躍した坪田智夫氏が監督を務めており、指導を受けたいという気持ちが募ったことが大きな理由だったという。

 しかし、大学での陸上生活は決して順風満帆ではなかった。2年生の夏、太ももと膝を負傷し、その後1年近く練習に参加できなかったのだ。

 「入学当初に掲げていた出雲、全日本、箱根の3大駅伝出場という目標は達成できないのではないか」。どん底の状況を支えてくれたのは、学生を含むチームのトレーナーだった。意気消沈した扇選手に寄り添い、ケガ再発防止の工夫や練習メニューについて、親身になって助言してくれた。「3大駅伝に出るため自分は法政を選んだ。ケガから逃げてはいけない」。最終的に自分で部に踏みとどまる決断をして、3年生の春に練習に復帰した。

 ケガを経験したことで、自分に合った走りを見つけるべく、練習の中で常に考える習慣も身についたという。そしてじっくりと体作りに取り組み、昨年10月に開催された出雲駅伝は4区で4位と好成績を収め、復活を強くアピール。初めて箱根の切符をつかんだ。

 本番では任された4区で区間7位。扇選手らしい快調な走りで、チームの順位を二つ上げた。レース後、自らの走りについて「きつい部分でも沿道からの応援を受けて粘り強く走ることができ、今はほっとしている」と振り返った。大学生活を自己採点してもらうと、「ケガもあり迷惑をかけたが、最後の出雲、箱根で走れた自分に50点をあげたい」と話した。

 「この経験は今後につながる」と話す扇選手。卒業後は、実業団のマツダで陸上を続けていく。「ニューイヤー駅伝の大舞台で区間賞を取りたい」。その目はもう、前を見据えている。【駒沢大・根岸大晟】

悔しさは来年雪辱 稲毛崇斗(たかと)選手(3年)

 中学時代に、当時「山の神」とたたえられた青山学院大の神野大地選手に憧れ、陸上を始めた。「その頃から、箱根駅伝の舞台で活躍することは、自分の人生で最大の目標となっている」と、箱根にかける思いを熱く語った。

 稲毛選手は1年生の時に箱根駅伝の予選会に出場。本大会出場に貢献した。更に力をつけて2年生の時には本大会メンバーに選ばれ、終盤に上りのある8区を任された。しかし結果は区間13位。早稲田大に抜かれてチームの順位を落としてしまい、落ち込んだ。その際に痛感したのは箱根の厳しさだ。「上りには自信があったが、自分の走りでは箱根のレベルだと通用しないと感じた」という。

 ただ自分の弱点を知ったことで、自身が目指すべき選手像が固まった。上りのスペシャリストにはなれなくても、さまざまな区間に対応できるような選手になろうと決意した。「どこの区間でも安心して任せられるようなオールマイティーな選手の方が監督から信頼されるし、何よりかっこいいと思った」とその理由を語る。そのためにフォームも修正した。

 昨年5月の関東インカレ・ハーフマラソンで大幅に自己ベストを更新するなど、調子が良いと自負していた。2年連続での箱根出場と、区間賞の獲得を目指して練習を積んでいたが、思わぬ落とし穴が待っていた。10月の出雲駅伝で6区10位の成績を残した翌日、右足に違和感を覚えたのだ。骨膜炎という疲労骨折の一歩手前の状態だった。

 治療に努め、箱根に間に合わせようと調整を行った。しかし、必死の努力も届かず、登録メンバーには選ばれなかった。選考結果について稲毛選手は「ケガが原因のため仕方ないが、とても悔しい気持ちでいっぱい」と語った。

 レース当日は1区の松永伶選手の付き添いと、8区の宗像直輝選手の給水補助を担当した。緊張をほぐせるような声かけを意識したという。「選手としては出られなかったが、良い経験ができた」と大会を振り返り、「来年こそは出場して区間賞を獲得したい」と雪辱を誓った。【上智大・古賀ゆり】

ありがとう 仲間たち 内田隼太(しゅんた)選手(2区・4年)

 「ただ単純に走ることが好き」。内田選手への取材中、何度も耳にした言葉だ。神奈川県で生まれ、幼い頃からサッカーをしていた内田選手。陸上を始めたのは中2の時で、法政二高進学後は陸上一本に絞ることを決意した。大学は、陸上部の自由な雰囲気が魅力だった法政大を選択。陸上と並行しながら、簿記などの資格のための勉強もしている、というから驚きだ。

 2022年の箱根駅伝後に主将就任を打診されたが迷いはなかった。「なんとなく自分ではないか、という予感があった」。主将としては「全体を気にすること」を心掛けた。練習では得意なスピードでチーム全体をけん引。積極的に後輩の意見も聞くなど、練習面でも生活面でも後輩の手本になるような、背中で見せる主将像を目指した。

 内田選手を語るうえで外せないのが、1学年上のエースであった鎌田航生さん(22年3月卒)の存在だ。現在はヤクルトで実業団選手として活躍している。高校時代からの先輩後輩の関係で、「仲が良く、ライバルという言葉だけでは言い表せない存在」だった。卒業後もその背中に追いつくべく、練習に明け暮れた。

総合5位以内を狙った昨年10月の出雲駅伝は、7位に終わった。「それでも秋以降はどんどん強いチームになってきた」。出雲で得た経験は、確実に箱根駅伝の結果につながる。「箱根でも自分が流れを作る。箱根でも総合5位を狙いたい」と力強く語っていた。

 2年連続の出場となった今大会では、2区を任された。足の状態は万全ではなかったが、区間8位の走りで上位争いに踏みとどまった。最終の総合順位は7位。目標に一歩届かず「全体としても個人としてももっと上を狙いたかった」と悔しさをにじませた。それでも最後は「楽しかった。仲間たちにありがとうと伝えたい」と締めくくった。

 卒業後はトヨタ自動車で陸上を続ける。「陸上トップの場所で周囲への感謝を忘れず、トラックやマラソンなどに挑戦していきたい」。内田選手の走りはとどまることを知らない。【早稲田大・山本ひかり】

取材班の一言

▽「箱根取材は2回目ですが、記事執筆は初めて。取材した選手の方のコメントをどう生かすか、悪戦苦闘の日々でした」(早稲田大・山本ひかり)

▽「初めての箱根取材班。選手たちの箱根駅伝に向ける熱い思いに刺激を受けました。来年の箱根駅伝が今から楽しみです」(駒沢大・根岸大晟)

▽「選手に取材し、タスキをつないで走ることの重みが伝わってきました。今年は特に応援に熱が入りました」(上智大・古賀ゆり)

▽「選手たちの箱根駅伝に対する熱い思いに心を打たれました。記事掲載という形で箱根駅伝に関われたことは非常に光栄です」(中央大・朴泰佑)

▽「3年ぶりに沿道で応援しました。箱根駅伝で引退する4年生の意地の走りを目の前で見られて幸せでした」(千葉大・谷口明香里)

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