<戦争を考える取材班>
「戦争を考える」企画2回目は、歴史に埋もれた従軍兵士の見えない心の傷(PTSD)の問題の掘り起こしに取り組む活動と、操縦士を目指した若者の夢と悲運を今に伝える予科練平和記念館を紹介する。
従軍経験、PTSDに 父の苦しみ胸に、自費で交流館開館 武蔵村山市・黒井秋夫さん
強いショックや精神的ストレスがダメージとなって発症する、心的外傷後ストレス障害(PTSD)によって、長い時間がたっても消えない恐怖心に苦しむ元兵士たち。戦地で負った「見えない心の傷」の問題は、第一次世界大戦後に欧米で知られるようになったが、日本では研究が十分なされず、知名度も低い。この現状を改めようと、正しい知識の普及と理解促進を目指す取り組みを取材した。
東京都武蔵村山市在住の黒井秋夫さん(71)は今年5月、「PTSDの日本兵と家族の交流館・村山お茶飲み処」を自費で開館した。その2年前からPTSDを抱えた復員者とその家族を支援し、家族同士が悩みなどを語り合う事業を始めていた黒井さん。開館は大きな前進だった。
黒井さんが戦時PTSD問題に取り組んだ背景には1989年に76歳で亡くなった父の生き様がある。父は戦時中、2度徴兵され、46年に復員した。中国戦線で軍曹として部下を指揮する立場にあった。しかし黒井さんが知る戦後の父は家族のお荷物的存在で、「父は怠け者で駄目な男だと考えていた。指示命令なんか全くできないので、(戦時中の様子が)想像できなかった」と黒井さんは語る。
そんな父への認識が大きく変わるきっかけになったのは2015年、ベトナム戦争に従軍し、PTSDに苦しむ元米軍兵の映像記録を見たことだった。「もう俺は違う人間になってしまった」と語る元兵士の姿、言葉に父親が重なった。父はPTSDを発症していたのではないか。「父の苦しみに気づいていれば、情愛に満ちた関係が築けたかもしれない。残念であり、父に申し訳ない。父に代わって、悔しさを伝えたい」
日本では広く知られずにいた戦時PTSD問題だが、黒井さんの奮闘で、状況は徐々に変化してきている。開設した交流館は、コロナ禍で来館者は足踏み状態だが、活動内容を発信するホームページへの訪問者数は3ケタ台でも、7月は前月比1・5倍と着実に増えている。
戦時PTSDは、決して過去の問題ではない。紛争地に派遣される自衛隊員などが心の病を抱えるケースは相次いでいる。正しく対処するには、「事実の研究、トラウマから解放されていく手段の検証が必要」だと黒井さんは指摘する。学術研究の裏付けが重要だということだ。そんな黒井さんが「百人力」とたたえる支援者が、国内の障害者問題の歴史を長年研究してきた埼玉大名誉教授、清水寛さん(84)だ。
軍隊で心を病んだ兵士の症状は「戦争神経症」と総称され、戦時下、国内でも一部で治療や研究が行われた歴史がある。しかしその活動は一般に知られることはなかった。その背景には「陸海軍、特に海軍の兵士は優秀であり、精神障害者がいるわけがない、という信念があったためだ」と清水さんは指摘する。
清水さんの研究の背景にも父の存在がある。清水さんの父は徴兵されシベリアに抑留された後、復員できたが心身に異常をきたしていた。「道端の馬ふんを拾って『パンだ、食べろ』と言っていた」という。
黒井さんの活動は新聞報道で知り、自ら連絡を取った。障害を負った戦争経験者が数少なくなる中で、戦時PTSD問題を「家族の立場から語り、交流館をつくって他の方の体験とも結びつけて考える」黒井さんの取り組みを高く評価。自身の膨大な研究成果も「若い世代に分かりやすく書いたり、伝えたりしていきたい」と記者に語った。黒井さんはがん、清水さんは難聴と闘いながら、戦時PTSD問題に向き合う。誰もがこの問題を直視し、知ることができる社会へ。うねりはまだ始まったばかりだ。【一橋大・鹿島もも】