日本が太平洋戦争に敗れて今年で80年。戦争の記憶を風化させないために、今年も「戦争を考える」企画をお届けする。初回は、長崎への原爆投下で被爆し、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員として核兵器廃絶に取り組んだ田中熙巳(てるみ)さん(93)と、ミュージカル「ひめゆり」を制作したハマナカトオルさん(67)と、同作品に出演した俳優で、現役大学生の矢吹万奈さん(22)を紹介する。【「戦争を考える」取材班】
歌で語り伝える沖縄戦 舞台「ひめゆり」 事実に重き、学び成長
ミュージカル座の舞台「ひめゆり」は1996年に制作された。看護要員として動員された学徒隊のうち、半数以上戦死したという史実を基に、戦争の悲惨さ、軍事教育の恐ろしさ、そして平和の尊さを訴える。
同作品は全編41曲の楽曲で構成される。「海外の戦争を扱った舞台を見た帰りに、他のお客さんが、初めて戦争の悲惨さを思い知ったと話していた。当時、日本には戦争を伝える舞台が少なく、日本の戦争を伝える舞台を作らなければと思った」と制作動機を語るハマナカさん。ただ、戦争をテーマにしたストレートな映像作品はすでに多くある。「だからこそ、歌で語り、歌で感じてもらう形式を選んだ」と話した。
ひめゆり学徒隊をテーマに選んだのは、華々しいミュージカルのイメージとはほど遠い、モンペ姿の登場人物たちの姿が日本人の肌感覚に合うと思ったからだという。一方で、ミュージカルとして上演する形を選んでも、事実を伝えることに重きを置いた。「脚色はできるだけ避け、事実に即して描いている。歴史を物語にしすぎず、事実として伝えたいという思いがある」
出演者はオーディションで決まるため、顔ぶれは毎年変わるが、稽古(けいこ)場には沖縄戦に関連した新聞記事が張られ、資料や文献なども共有される。時には、沖縄戦について調べたことを出演者同士で報告し合う「学徒会議」と名付けた会議も行われるという。ハマナカさんは「今を生きる現代の日本人が当時を学ぶことが、出演者としても人としても成長することにつながるのではないか」と話した。
そして、そんな舞台を高3の時に見て感銘を受け、早稲田大学文化構想学部入学後、オーディションに挑んで出演を勝ち取ったのが矢吹さんだった。矢吹さんは、非業の死を遂げる「ゆき」を演じる中で、自身の中にある戦争との距離が変わっていったという。
「元々、親戚に被爆者がいたり、所属していた合唱団で戦争が題材の作品を扱ったりしていたので、戦争が自分の近い所にあるものだとは感じていた。でも、実際に演じて、さらにひとごとではないと感じることが増えた」と話す。
そして、矢吹さんもまた演じる側が学ぶことの重要性を語る。東京生まれで東京在住の矢吹さんは、実際に沖縄県のひめゆりの塔や学徒が犠牲となったガマ(洞窟)に足を運んだ。「彼女たちに顔を向けられる演技ができるように、知ることや学ぶことに貪欲でいなければならないと思った」
「ゆき」は最後、ガス爆弾によって命を落とす。しかし矢吹さんは、そんな彼女の物語を“可哀そう”の一言で終わらせたくないという。「悲しいね、可哀そうだね、で終わらせてしまうと、どこか遠い世界の話になってしまう。彼女たちは、今の私たちと何も変わらない女の子たちだった」と言い、戦争を「自分ごと」として捉えてもらえるような演技ができるようになりたいと話した。
22年に舞台未経験の状態で出演し、23年にも出演を果たした矢吹さん。この舞台で得た学びが今も心に強く刻まれて、役者としての大きな指針になっている。忙しい大学生活と稽古を両立しながら、舞台の上に立ち続ける理由をこの舞台で見つけたのだ。「埋もれていくような人や声をすくい上げる行為そのものが演劇だと思う。そのことを舞台を通じて学んだ。だから私はその一端を担えるような人間になっていたい」
沖縄戦から80年の歳月が流れ、戦争を実際に経験した語り部は数少なくなっている。「ミュージカルの世界でも、戦争の記憶を引き継いでいかなければならないと思う」とハマナカさんは語る。また、こうして記憶を引き継いでいくことで、現代の戦争の問題を考えるきっかけになれたらいいと話してくれた。
舞台「ひめゆり」の29年目の上演は、8月21~24日、東京・北千住の「シアター1010」で行われる。
軍国少年が見た長崎「惨たんたるもの」 助けられた人生、「奉仕」胸に 被団協代表委員・田中熙巳さん(93)

1945年8月9日、旧制長崎県立長崎中学校の1年生(当時13歳)だった田中さんは、爆心地から3キロほど離れた長崎市内の自宅で被爆した。自宅の2階でピカッという強い光を見た後に気を失い、爆風音などの音の記憶はないという。2階建ての自宅の屋根などは損壊していたが、1階部分は生活できるほどには残っていたという。幸い田中さんにも、家族にもケガはなかった。
3日後、爆心地近くに住む親戚の安否を確認するため、母と一緒に向かった。爆心地から700メートルほどの父方の伯母の家は潰れていて伯母さんは亡くなっていた。火葬する間、母方の伯母の家を探しにお母さんと歩いた。家の間取りと周りの道を手掛かりに親戚の家を探し、伯母さんやそのお孫さんが亡くなっていたのを見つけた。
見つかった遺体はどれも炭のように真っ黒で、形や大きさ、また台所の格好など覚えている限りの家の特徴をもとに見分けていった。帰路、収容しきれない遺体や川に浮く遺体を数多く目にした。異常なほどの異臭が漂うその光景は「惨たんたるもの」で、「こんな殺し方をするなんて、戦争ってないよな」と思い知らされたという。
陸軍の軍人だった父の影響もあり、田中さん自身も憧れの念から海軍に入ることを目指す軍国少年だった。しかし身内を失い、悲惨極まる現場を目の当たりにしたことで、戦争がいかに非人道的で悲惨なものか、現実を突きつけられた。
5歳の頃に父親が亡くなってから、母と兄、2人の妹の5人暮らしで、戦後の生活は困窮を強いられた。父の遺産を売り、母と兄は低賃金の日雇い労働者として働いたが、生きていくので精いっぱい。中学2年生の頃は金銭的に厳しく退学を考えたが、学科主任の先生に止められた。先生が作った学校の売店で同じ境遇の同級生と働きながら、奨学金も借りて何とか中学校、そして高校に通い続けた。「人に助けられてきた」と当時を振り返った。
田中さんは高校卒業後、長崎市役所の手伝いでお金を稼ぎ、大学進学を目指して2年後に上京した。そして東大生協の正社員などとして働きながら受験勉強に励み、東京理科大学に進学。卒業後は宮城県に赴き、東北大学の助手となった。
原水爆禁止活動に関わるきっかけは、54年に米国がビキニ環礁で行った水爆実験で日本の漁船、第五福竜丸が被爆した事件だった。60年安保闘争が落ち着きを見せた頃、本格的に被団協での活動を始めた。「自分にできることがあったらやろう」という精神と、組織をまとめる力の高さが周囲の信頼と期待を集め、任される仕事が増えていった。77年の原水爆禁止世界大会では長崎代表としてスピーチを、78年第1回軍縮会議時には代表団事務局長を任されるようになっていた。
これまでの活動の中で一番大切にしてきたのは「奉仕の精神」。高校時代に博愛精神に基づく赤十字の活動に打ち込んだ経験が、大きく影響していると振り返る。「これまで自分が助けられてきた人生だったからこそ、その重要性を強く感じている」という。
被団協の活動では、たとえ意見の対立があっても、一致するところだけでも行動して前に進めることを鉄則とした。大事なのは「話す」こと。そうした積み重ねが法律やそれに関する施策などの具体的な成果を生み、これまでの努力、そしてこれからへの期待が、2024年のノーベル平和賞受賞につながったのではないかと振り返った。
今年は戦後80年。「被爆者の証言をもっと広げていけ、というのがノーベル委員会の意向なのではないかと受け取った」という田中さん。「核兵器廃棄をしっかりと政府に求められるくらいの運動にならなきゃいけないな」と、改めて強く考えているという。
「おしゃべりだね。こんなに(自分のことを)詳しく話したの初めてだよ」。自身の半生を丁寧にたどる田中さん。「被爆者たちがしゃべってきたことをつないでください。核戦争が起こるなら皆さんの時代。核戦争を起こさないためにはどうしたらいいか考えてください」。田中さんは現代の若者に、そんなメッセージを寄せてくれた。

