毎日新聞キャンパる編集部の学生記者が、太平洋戦争のさまざまな断面に焦点を当てる「戦争を考える」企画。最終回の今回は、家族と戦前から育んだ映画への愛を戦後、ミニシアター経営に結実させた岡村照さん(90)の歩みと、終戦を経てなお続いた感染症との闘いについて企画展を開催している、平和祈念展示資料館への訪問記をお届けする。
戦中戦後、映画愛とともに
温泉観光地として有名な大分県別府市。大通りの一角にレトロな看板が目印のミニシアター「別府ブルーバード劇場」がある。当時葬祭場を経営していた故・中村弁助さんが1949(昭和24)年に開館させた。現在の館長は長女である岡村照さん(90)=同市在住=だ。館長を務めて51年間。名物館長として県内外で広く親しまれている。しかし戦争によって平和な日常を奪われた一人でもある。
照さんは6人きょうだいの3番目に長女として生まれた。映画好きの弁助さんに連れられて幼い頃からよく映画館に通い、スクリーンに映る女優に魅了された。しかし国民学校4年生、10歳の時に太平洋戦争が始まると生活は一変。ぜいたくは禁じられ、配給されたサツマイモを使った芋がゆや山で採れたツクシが食卓に。靴がなかったためにわら草履を自分で編んで履いた。
大好きだった映画も学校から禁じられた。「みんな気持ちを抑えつけながら生活していたのがつらかった。戦争に青春を奪われた」と話す。当時の生活は「柵の中に閉じ込められたような世界だった」という。
空襲警報が鳴るたびに家の財産である債券を首に下げ、幼い3人の弟と妹を引き連れて防空壕(ごう)へ駆け込んだ。「長女として下の子を絶対に守るという意識は常にあった」と話す。壕に向かう途中、隣の大分市に焼夷(しょうい)弾が落とされ別府湾が真っ赤になった。それを見て腰を抜かした大人に「しっかりしなさい」と声をかけたこともあったという。
国民学校卒業後は女学校に入学。終戦直前の夏には、生産現場の労働力不足を補うために編成された女子挺身(ていしん)隊に動員された。工場での勤労奉仕は上級生が、照さんたち下級生は学校でイモの植え付けをさせられたという。そのまま学校で寝泊まりする生活。夜になる度「家族に会いたい」と心細さを募らせた。「粗末なことはその時に慣れた」と笑う照さん。そんな日々に耐えられたのは、日本の勝利を疑わなかったからだった。
8月15日は、ラジオの前に座って迎えた。「まさか日本が負けるなんて」と大きなショックを受けたという。幸い、照さんの家族は戦争で犠牲者を出さず、別府の街も直接戦争の被害を受けることはなかった。しかしそのために戦後は米軍が進駐した。
戦後の生活は、それまでと全く違うものになった。最初は見かけると恐怖を感じた米兵にも慣れ、持ち運べるラジオなどの舶来品を見る度にわくわくした。教育制度も変わり男女共学の高校に転校。「自由はこんなにいいものか」と心から思った。その時から戦争は絶対にしてはいけないと思うようになったという。
父の弁助さんが「子どもたちに良い映画と夢を届けたい」という願いから、150席の平屋建ての映画館を開館させたのは、高3の時だった。大学進学を両親に勧められたが、照さんはすでに映画のとりこ。進学せずに鑑賞券のもぎり手として働き始め、親子で奮闘。70(同45)年、弁助さんが79歳で亡くなった後は、高校時代から付き合っていて23歳の時に結婚した一つ年上の昭夫さんが2代目として引き継いだ。
発想力が豊かだった昭夫さんの発案で、軽食が楽しめる映画館に改装。当時食事をしながら映画を楽しむことは目新しく、一躍話題となり北海道の新聞にも取り上げられた。「周りより30年進んだ映画館だった」とうれしそうに話す。しかし昭夫さんは後を継いでから10カ月後に心不全で急死。照さんは2人の子供を育てるためにも亡くなった4日後には劇場を開けた。
「若いから不安定になった時もなんとか頑張れた」と照さん。大分市に大型映画館ができた影響で、経営が立ち行かなくなった時もある。たった一度だけ、映画館を閉めようかと本気で悩んだのもこの時だ。結局、最盛期には別府市内だけで20館以上あったというミニシアターの、最後の1館になった。それでも「私には映画しかない」と強い映画愛を糧に51年間なんとか続けてきた。今年は、市内の共同温泉に関する短編映画の競作プロジェクトも企画。地元愛も深い。
毎年新作の戦争映画を上映する。照さん自身が「戦争は無駄なこと。二度とすべきではない」と見た後に強く感じる作品を選ぶという。「嫌なことがあったら映画に励ましてもらっている。同じように映画からパワーをもらう人のために、今はできる限り劇場に立ち続けることしか考えていない」と話す。
戦時中と比べ物があふれている現代。「戦争がないこと、物があることを当たり前に思ってほしくない」と話す照さん。記者の心に強く響いたその言葉は、未知のウイルスによって平穏な日常が決して当たり前でなくなっている現在の私たちにも重なるような気がした。【日本大・山口沙葉、写真は筑波大・西美乃里】
戦争と感染症
昨年から猛威を振るい続ける新型コロナウイルス。今、全世界の人々がこの感染症と闘っている。感染症は太平洋戦争中や終戦後にも流行し、多くの人々を苦しめていた。現在、企画展「戦争と疫病」が開催されている「平和祈念展示資料館」(東京都新宿区)を訪ね、当時の感染症との闘いに思いをはせた。
同資料館が使命としているのは、太平洋戦争に従軍した兵士、戦後ソ連に強制連行されたシベリア抑留者、そして海外からの引き揚げ者が体験した労苦を伝承すること。今回の企画展は、その人々を襲った感染症に焦点を当てている。
衛生環境の悪さや食糧難も相まって、戦時中の激戦地ではマラリアや赤痢などが、そして終戦期の日本では、帰還者らを中心にコレラや天然痘、チフスなどが流行し、多くの犠牲者を出した。企画展では、戦時中の感染対策やシベリア抑留者の過酷な生活の中での感染症との闘いぶりを紹介。当時の人々がどのように感染症に立ち向かっていたのかが展示資料を通して感じられる。
感染症まん延を食い止めるための当時の水際対策について、引き揚げを体験し、また同資料館で語り部として活動する、手塚元彦さん(87)にお話を聞いた。手塚さんは1946(昭和21)年の9月に旧満州(現中国東北部)の葫蘆島(ころとう)から妹2人と長崎県佐世保市の浦頭港に引き揚げた。しかし、港に着いたのに引き揚げ船の中でチフスとみられる感染症の患者が出たことが判明。下船を禁じられ、1週間ほど船での生活を余儀なくされた。
船内での食事は麦飯のおじやが出されるくらい。また、就寝時は皆が大部屋で寝た。仕切りがあるわけではなく、「振り返ってみれば密な状態だった」と手塚さんは話す。下船が可能になるのは、検疫をして約3000人の引き揚げ者から一人も感染者が出なかった場合のみ。検疫方法は検便で、検査官によってついたてもない場所で行われた。手塚さんは「たくさんの人がいる場所で検査が行われて、嫌だったことを覚えている。でも早く下船したいから、不満を言う人はいなかった」と語った。
戦後も、手塚さんの周りでは不衛生さから発疹チフスが流行した。「今とは環境が違って、ないないづくしだった。マスクや消毒液も十分にはない。街で行き倒れている人を何人も見ていたから、自分が感染したらもうおしまいだと思っていた」と手塚さんは改めて当時を振り返った。
コロナ下で開催した今回の企画展について、同資料館学芸員の高倉大輔さん(34)は「若い人にも戦争に関心を持ってもらい、我が事としてとらえてもらうために疫病をテーマに選んだ。今回の展示を見て、戦争について主体的に考えてもらうきっかけになれば」と話す。「実際に来館者から『終戦前後もさまざまな苦労をして感染症を乗り越えていたことが分かった』など、今と重ね合わせた声も寄せられている」という。
記者も実際に訪れ、当時の過酷な環境での感染症から身を守ることがいかに大変だったのか、考えを巡らせる機会になった。企画展は9月5日までで、入館料は無料。【日本女子大・鈴木彩恵子】