戦後80年、戦争の記憶を風化させないための取り組みは、今後ますます重要になる。最終回となる今回は、降伏後も駐屯先のインドネシアにとどまった残留日本兵たちの記憶継承に取り組む、同国在住の子孫たちの活動と、広島への原爆投下で被爆した在外被爆者への支援に長年携わる傍ら、自らの被爆体験を語り伝え続けている「ヒロシマを語る会」代表の豊永恵三郎さん(89)を取り上げる。【「戦争を考える」取材班】
降伏後、インドネシア独立戦争に参戦 残留日本兵の記憶、後世に 子孫ら慰霊や交流促進
インドネシア独立記念日の8月17日、首都ジャカルタにある国立カリバタ英雄墓地の一角で、残留日本兵をしのぶ合同の墓参りが行われた。墓参りには同国を訪問した記者も参列した。
同墓地には、旧宗主国オランダとの間で勃発した独立戦争(1945~49年)で戦死した兵士や、政治家、市民など独立に功績のあった約9700人が埋葬されている。そのうち28人は、インドネシア人と共に戦い、戦死した残留日本兵だ。墓参りには残留日本兵の子孫のほか、日本政府関係者や同国に駐在する日本企業の従業員とその家族など、約70人が参加した。
太平洋戦争中、日本はインドネシアを42年から約3年半にわたり占領統治していた。45年8月15日に日本が降伏すると、同17日には、独立運動のリーダーで後に初代大統領、同副大統領になるスカルノとハッタが独立を宣言した。
その後、植民地支配を復活させようとしたオランダとの間で独立戦争が勃発。日本の降伏後もインドネシアにとどまり、独立戦争でオランダと戦った残留日本兵(一部民間人も含む)は約900人にのぼり、そのうち500人以上が戦死した。生き残った三百数十人のうち約40人が日本に帰国し、残りの約300人がその後もインドネシアで暮らしたという。
降伏後に多くの日本兵が軍を離脱し、日本に帰らなかったのには千差万別の事情があった。戦後に残された残留日本兵の証言などによると、独立の趣旨に賛同した人もいれば、軍への不満を抱えた人や戦犯になるのを恐れた人、日本での働き口のあてがなかったという人もいた。
しかし独立戦争に参戦した英雄的な残留日本兵がいたとしても、インドネシアを占領した日本に向けられる国民の目は厳しかった。生き延びた残留日本兵たちの中には、籍がないゆえになかなか職に就けず、苦しい生活を余儀なくされた人も少なくなかったという。
こうした歴史を次世代へ伝え続けるのが、ジャカルタに本部を置く「福祉友の会」だ。同会は、独立戦争参加後もインドネシアで暮らした残留日本兵ら107人の発起人によって発足した。設立当初の目的は、残留日本兵相互の連絡や生活困窮者の支援など。79年の設立以来、世代交代を経て現在も活動を続けている。今回の慰霊する会も同会が主催した。
2023年には、残留日本兵の歴史を継承することや、インドネシア人と日系人の交流の促進などを目的に同会の活動拠点を改装し、残留日本兵に関する展示を行うギャラリーや交流スペースを設けた。
現在の事務局長は残留日本兵4世のヨガ・クスマ・ウエダさん(26)。ヨガさんは20歳の時、家にあった家系図などで自分が残留日本兵の子孫であることを知ったという。
インドネシア独立のために戦い、戦死者も出しながら、同国内で称賛されることもなく、生活苦にあえいだ多くの残留日本兵たち。曽祖父のことを知り残留日本兵について調べていくなかで、ヨガさんはそうした事実を知り「複雑な気持ちになった」と語る。
実際、独立戦争後にインドネシアでは残留日本兵について学校などで教えることはなく、ほとんどの国民が存在自体知らないのが現状だという。ヨガさんは「残留日本兵についての書籍は日本には多く存在するが、インドネシアには存在しないため翻訳などをして残していきたい」と語った。
23年には、インドネシアを訪問した天皇、皇后両陛下がカリバタ英雄墓地で供花し、残留日本兵の子孫を含む在留日本人と懇談した。福祉友の会の理事長で同じく4世のミアガ・プアナ・タナカさん(33)は「残留日本兵の存在が少しずつ知られていることがうれしい。彼らも天国で喜んでいるのではないか」と話した。その上で「会のネットワークは政府関係者、日系企業など広く、このネットワークを今後活用して日本とインドネシアの交流を活発にしていきたい」と意気込んだ。
また同会の会長で残留日本兵2世のヘル・サントソ・エトウさん(65)も「私たちはルーツを忘れてはいけない。次の世代に活動をつないでいかなくてはならない」と話した。
命の限り平和問う 在外被爆者支援や伝承活動 豊永恵三郎さん

1945年8月6日、当時9歳の豊永さんは中耳炎の治療で、家族と離れ1人で市外に出かけていた。原爆が投下された時、爆心地から約10キロ離れていたのでけがはなかったが、翌日、爆心地から約2・5キロの広島市内に住む母と弟を探しに戻って被爆した。母は重いやけどを負い、母の下敷きになってけがを免れた3歳の弟も、下痢など長く体調不良に苦しんだ。
父親を病気で戦前に亡くしていた豊永さん一家は、戦後、爆心地から11キロ離れた親戚の家のそばに家を借り、新たな暮らしが始まった。母子家庭で生活は楽ではなかった。高校卒業後は就職を考えていたが、大学進学を後押ししてくれたのはそれまで生活を支えていた母親だった。奨学金をもらい、アルバイトを掛け持ちして61年、広島大学を卒業。私立高校の教師となって広島市で暮らした。
そんな豊永さんが在外被爆者支援の活動に関わり始めたのは71年。韓国での教員研修に参加した際に、同国在住の被爆者が救済を求めるニュースを空港で見て、広島で被爆したという彼ら4人と会ったことがきっかけだった。
在外被爆者とは、戦争中に広島、長崎で被爆したものの、戦後日本以外に居住して政府の支援を受けられなかった被爆者のこと。朝鮮半島出身者や海外に移住した日系人が大半を占める。厚生労働省によると、今年3月末現在で約2000人を数える。
豊永さんが韓国で会った4人は、日本統治下で日本語を強制的に学ばされており、会話できた。体調が悪くて働けない上、日本からも韓国からも支援を受けられないことに、豊永さんは衝撃を受けた。日本は65年に締結した日韓請求権協定で両国間の補償問題は解決済みとの立場を示しており、「放置されている現実が苦しかった」という。
71年、大阪で弁護士や市民らが「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」を設立。豊永さんは協力を申し出て、広島支部の立ち上げに奔走した。同支部は72年末に設立し、豊永さんは支部長を務めたのち、4年前から世話人を務めている。在外被爆者が手帳の交付を受けたり、治療費や手当を受給したりできるように、裁判の支援に尽力してきた。
被害を受けているのに、何の支援も受けられず亡くなっていく人も多い。日本人として「加害責任を感じなくてはいけないのではないか」というのが、豊永さんの思いだ。豊永さんはこれまで40年にわたり、韓国だけではなく、アメリカ、ブラジルなど世界各地に住む在外被爆者の裁判の支援に携わってきた。合計で43件の裁判が起こされ、約半分に関与した。
在外被爆者支援に取り組む一方、豊永さんは自らの被爆経験については教員時代の前半、ほとんど語ることがなかった。「過去をあからさまに出すのが嫌だった」からだ。そんな豊永さんの心境が変化したのは83年、大阪府立西成高校の生徒に自らの記憶を語ったことがきっかけだった。
同校の依頼を受け、生徒たちを連れて広島市の平和記念公園の慰霊碑巡りをした後、ホテルで自らの被爆体験を話した。生徒たちは、初めは話を聞く気がなさそうに見えたが、次第に耳を傾けているのがわかった。2人の女子生徒は、涙を流しながら「こんな話は初めて聞いた。これからも語り続けてほしい」と話したという。
豊永さんはそれ以来、授業を持つクラスでは初回あいさつの際に決まって被爆体験を話すようになった。また平和学習で訪れる修学旅行生らのために被爆体験を語る活動を開始。84年に被爆者13人で「ヒロシマを語る会」を結成した。
同会は一度の解散を経て今も記憶を語り続けている。「命のある限り、最後まで続けたい。話を聞いた子どもたちには、どうしたら平和な世の中を続けられるか、自分なりに考えてもらいたい」と豊永さんは願いを語った。
