太平洋戦争の終戦後、シベリアなどに抑留された日本人は、冬には氷点下30度を下回る厳しい環境で過酷な労働を強いられ、約6万人が命を落とした。3年にわたる抑留生活を体験した西倉勝さんもその一人だ。今年5月で100歳を迎えたが、今なお語り部としての活動を続けている。西倉さんの強い思いに耳を傾けた。【「戦争を考える」取材班】
「自分の痛みに置き換えて」
現在、神奈川県に住む西倉さんは新潟県二田村(現柏崎市)で生まれ育った。召集されたのは1945年1月、19歳の時。朝鮮・会寧(かいねい)の陸軍部隊に所属し、そのまま終戦。8月18日、ソ連軍に中国東北部(旧満州国)の図們(ともん)まで連れて行かれ、武装解除された。
その後、ソ連軍に「日本に帰す」と言われ、約200キロの道のりを10日間歩かされた。到着したのはソ連の領土で、貨車に乗せられた。しかし、方位磁石が示したのは北の方角。「もうだめだよ、こりゃシベリアだ。仲間の悲鳴が今も耳に響いてくる」と西倉さんは静かに語る。
同23日、スターリンにより「日本軍捕虜50万人を移送せよ」という極秘指令が出され、シベリア抑留が実行された。シベリア抑留とは、ソ連が拘束した日本人をシベリアなどソ連領各所の強制収容所に抑留し、強制労働させた国際法違反の行為。「だまして我々を連れて行った。戦争とはそういう、うそやだましがまかり通るもの」
貨車の到着地はソ連極東部のコムソモリスクだった。強制収容所の食事は、まずい黒パンと具の少ない野菜スープ。量も少なかった。恒常的な飢えに、誰しもが少しでも多く食事を取ろうとし、すきを見れば互いに奪おうとした。「食べ物を前にすると目の色が違う。人間の本性を見た」
また冬場の厳しい寒さに耐えながらの肉体労働も過酷だった。ソ連の戦後復興として、住宅建設や道路工事など、さまざまな労働に従事させられた。特につらかったのは水道管工事だ。たき火をして、凍った地面を溶かしながら掘ろうとしても、極寒の中、作業は遅々として進まなかった。
シベリアに強制連行されたのは民間人も含めて約60万人。西倉さんによると、亡くなった約6万人のうち、約70%が最初の冬を越せず、抑留後1年以内に亡くなったという。心身が弱ければ、次々と倒れていく。常に死と隣り合わせだった。何年で帰れるのか。いつまで体がもつのか、毎日考えた。しかし「親に会うまでは死ねるか、ここで死んでたまるか」と気持ちを強く持ち続けた。仲間同士の励ましも大きな支えとなった。
西倉さんが帰国できたのは48年。実家の農家は継がず、東京で保険会社に入社した。定年退職後も長年、年金相談員として全国をまわり、年金の勉強会を開いていた西倉さん。抑留体験を語り始めたのは、90歳の時だ。シベリア抑留について、家族にも詳しく語ったことはなかった。「人間らしいことはなく、つらかった」からだ。
しかしある時、西倉さんがシベリア抑留体験者であることを知った知り合いから、年金の話の後に抑留体験についても話してほしいという依頼を受けた。「何事もちょっとしたきっかけで事が始まる。話せるようになってよかった」。その後、平和祈念展示資料館(東京都新宿区)から声がかかり、本格的に語り部としての活動を始めた。
終戦から80年たったが、ロシアによるウクライナ侵攻やイスラエルとパレスチナの紛争など、世界で戦争は絶えない。罪のない市民が命を奪われ続ける現状について、戦争を止められない国際社会への憤りを表すとともに「話し合いで解決してほしい」と訴えた。語り部を続けているのも、戦争をなくしたいという強い思いからだ。「絶対、絶対絶対、戦争はだめだ」。強い言葉で何度も繰り返しながら、首を振った。
しかし、シベリア抑留体験を語れる存命者は年々減少している。「我々が最後だから、いなくなったら、そんなことがあったのかなと思われてしまうのかね」と西倉さんはこぼした。そして、だからこそできる限り最期まで語り続ける覚悟だと話してくれた。「体験を聞いた人が、自分の痛みとして考えることが大事」。抑留を体験した西倉さんからの重いメッセージだ。
