戦争を考える’25/2 韓国・朝鮮人BC級戦犯の苦難忘れない 「不条理」訴え続け70年/家族の軌跡に誇り

「戦争を考える」取材班
「応援してくれる日本の方がいるから頑張ってこられた」と語る同進会の朴会長=東京都新宿区の高麗博物館で、日本大・田野皓大撮影

戦争に翻弄(ほんろう)された当事者の数が年々減り続ける中で、いかに記憶を継承していくか。今回は、捕虜に不当な扱いをしたなどとして裁かれた韓国・朝鮮人BC級戦犯の救済に取り組んできた同進会の朴来洪(パクネホン)会長(69)と、支援団体「同進会を応援する会」世話人の大山美佐子さん(57)、そして、満蒙開拓団の一員として中国・黒竜江省に渡った曽祖母を持つ明治大学4年の北原康輝さん(23)を取り上げる。【「戦争を考える」取材班】

韓国・朝鮮人BC級戦犯の苦難忘れない 「不条理」訴え続け70年 同進会・朴来洪会長


 6月22日、東京・新大久保の高麗博物館で、BC級戦犯とされた父を持つ在日2世の朴会長の講演会が開かれた。日本と朝鮮半島との交流の歴史を展示する同博物館では9月28日まで、「なぜ『朝鮮人』が戦犯となったのか」という企画展を行っている。

講演会には世代もさまざまな40人以上が集まり、同進会を結成したメンバーらの思い出を語る、朴会長の話に耳を傾けた。朴会長が懐かしむ「良い思い出をたくさんつくってくれた、本当に良いおじさんたち」のエピソードと、彼らがBC級戦犯として背負った苦難の歴史が、強烈なコントラストになっていた。

 BC級戦犯とは、第二次世界大戦終結後に行われた戦争裁判で連合国に裁かれた戦争犯罪人のうち、指導者が対象のA級を除く人々を指す。捕虜虐待や民間人迫害など戦時中の行為を罪に問われた。有罪となった約4400人の中には、321人の朝鮮、台湾出身者が含まれた。日本が戦線を拡大する過程で、当時植民地だった朝鮮や台湾から、捕虜の監視員として動員された人が多かったからだ。

 高麗博物館が企画展に合わせて発行した書籍によると、当時の日本軍は敵軍の捕虜になることを恥とし、タブー視したことから、朝鮮、台湾出身の監視員は捕虜の扱いを定めたジュネーブ条約の存在を教えられていなかった。戦争裁判では捕虜から不利な証言をされても、母国語の通訳がつかない状況ではまともな反証は不可能だったという。結果、有罪となった韓国・朝鮮人148人のうち刑死者は23人を数えた。

 戦後も韓国・朝鮮人BC級戦犯の苦難は続いた。釈放された後も朝鮮戦争の影響や、同胞からも日本軍の協力者とみなされたことで帰国を断念する人々が続出。また日本国籍を剥奪された彼らは軍人恩給や遺族年金の対象からは外されており、苦しい生活の中で差別・偏見に苦しみ、自殺者まで出した。

1955年、釈放された人、服役中の人約70人で結成された同進会は、生活保障、刑死者の遺骨送還、国家補償を求めて活動を始めた。「都合のいい時は『日本人』、そうでない時は『外国人』として切り捨てる。あまりにも不条理だ」。同進会は政府に何度も要望書を出してきたが、その訴えは通らなかった。65年の日韓基本条約締結後、政府は「補償問題は条約で解決済み」との姿勢を鮮明にし、同進会の訴えは門前払いを受けるようになった。実際は、協議対象から外されていたことが後で分かる。

 業を煮やした同進会は91年、政府に謝罪と賠償を求めて提訴したが、99年に最高裁で敗訴が確定。2008年には野党の民主党を中心に、特別給付金を支給する法案が出されたが、廃案となった。その後、超党派の日韓議員連盟などが立法を目指しているが法案提出には至っていない。

終戦から80年がたっても一向に救済は進まない。その現状を悲観して、戦犯とされた人の子の中には法の成立を諦める声もあるという。だが朴会長は「もう無理だよと言われて、おとなしく『はい』と言える性格ではない。応援する会の助けもあって、この問題を知る人が増えたり、韓国国内での理解が進んだりしている」と地道な活動が結実していることに胸を張る。

 一方で、救済立法や謝罪も大事な目的としながらも、「父親たちのための法の成立が、反省と教訓という形で日本の平和にも必ず役立つ」と話し、同進会の活動が、過去を直視し、平和を守ることへつながるという思いを語った。

 そんな朴会長や同進会の活動を、大山さんは、前身の「韓国・朝鮮人BC級戦犯を支える会」の91年の結成から支えてきた。同僚に誘われて同進会の総会に参加したことがきっかけだった。「不本意なことを命じられた、普通で真面目な人たちが罪に問われなければならなかったのはなぜか。今の自分と無関係には思えない」と語る。

 朴会長は「本当の平和を実現するためには過去にあったことを反省して、若い人に伝えていくのが上の世代の役目。父親たちの問題を次の世代の人たちにもっと理解してもらうために頑張り続ける」と、これからの目標を語ってくれた。

家族の軌跡に誇り 満蒙開拓団の曽祖母持つ 明治大・北原康輝さん


自分のルーツに向き合う大事さを語る北原さん=東京都千代田区で、日本大・田野皓大撮影

日中戦争の当時、日本が農業移民として旧満州(現中国東北部)に送り込んだ満蒙開拓団には全国から27万人が参加。最も多かったのが3万3000人以上を送り込んだ長野県だった。

 北原さんの曽祖母・さきさんも、長野県の開拓団の一員として黒竜江省に渡った。1945年8月、旧満州の権益保護のために駐留していた関東軍(日本軍)が撤退し、多くの開拓団員が現地に取り残された。さきさんもその一人だった。ソ連軍が攻め入ったことを聞き、自害しようとしたその時、現地の中国人男性に助けられた。そのままその男性と結婚(再婚)し、その後は同省で暮らした。

 後にさきさんの子や孫は全員、日本に移り住むことになる。さきさんの孫に当たる北原さんの父は22歳で初来日した。同省出身の北原さんの母と結婚後、そのまま長野市に移り住んだ。

 北原さんは2001年に長野市で生まれた。両親や祖父母とは中国語で会話し、長野の小学校に通ううちに、中国語を話す自分の特殊性に気づいたという。次第に同級生からは「中国人は自分の国に帰れ」「お前みたいな中国人は学校に来るな!」とののしられるようになった。中国にルーツがあることが嫌で、恥ずかしさでいっぱいになった。

 北原さんは、小学校高学年時に1年間、母方の実家である黒竜江省で生活したこともある。自分が日本人であることを現地の同級生が知ると、日本人に対する差別用語で「お前は日本鬼子だ」と言われた。「もう今では慣れてしまった」と語る北原さんだが、「自分は一体、何人なのか」と、今もアイデンティティーを自問し続けている。

 教育現場での差別を助長した原因の一つは、当時の日中関係の悪さが関係していると北原さんは推測する。彼が小学生だった12年は、日本が尖閣諸島を国有化し、中国で大規模な反日デモが発生するなど、両国でお互いに対する国民感情が急激に悪化した時期だった。

 北原さんは中学校に進学し、そこで初めて自分と中国とのつながりを知った。全国最多の開拓団員を送り出した長野県は、満州移民に焦点を当てた平和学習を行っている。北原さんは、この平和学習を通して、満蒙開拓団を学ぶと同時に、自分の家族が生きた軌跡をたどった。

 残留日本人2~3世にあたる祖父母や父から話を聞き、彼らが文化や言語の壁にぶつかりながら、必死に日本社会で生きてきたことを教えてもらった。当時、授業を受け持った飯島春光先生(72)は「自分のルーツに誇りを持って、堂々と生きていい」と北原さんを激励してくれたという。

 北原さんには、曽祖母が自害しようとしたところを救われたという家族の歴史がある。「曽祖母が中国人の曽祖父に助けられたからこそ今の自分がいる。それは恥ずかしい歴史でも、後ろめたいことでもない。次は自分がそれを他の当事者に伝える番になりたい」

 大学進学後の23年1月、北原さんは第42回日中学生会議の運営に携わり、講演会を早稲田大学で開催した。飯島先生をスピーカーに招き、「中国残留日本人の歴史、教育現場での多文化共生」をテーマに講演を行った。また24年9月から25年6月にかけて中国・上海の復旦大学に留学し、黒竜江省に赴いて、現地で暮らす母方の祖父母に満蒙開拓団について聞き取り調査を行った。調査を振り返って「開拓団は日本では被害者と見られている。しかし中国では違う」と話す。例えば祖父は「開拓団は中国にとっては加害者だ。中国人の土地を奪い、労働を強要した」と語ったという。

 日中戦争を巡る歴史認識は日中のしこりとして残る課題の一つだ。北原さんは来春就職予定だが、満蒙開拓団の語り部としての活動に挑戦したいという。「日本と中国の両方の視点から、人々は当時の様子をどう思っていたのか知り、次の世代に向けて語れる人になりたい」と意気込んだ。

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