芸術家や芸術関係の教育・研究者を長年輩出してきた東京芸術大学には校歌が存在しない。そこで現役芸大生が芸大の前身である東京美術学校の校歌を、同大の卒業生、現役生がともに歌える現代版の“校歌”として再生させた。どんな思いでこの取り組みを行ったのか、中心メンバーの2人に取材した。【明治大・伊藤優里】
授業の課題きっかけ
取り組みを進めたのは芸大の学生有志で作る「藝大校歌再生活動」で、約90人が所属している。設立者である美術学部先端芸術表現科3年(現在休学中)の高田清花さん(21)が2021年10月、授業で「芸大の歴史について調べ、作品を作る」という課題を出されたことが設立のきっかけだった。「何をテーマにしようかと考えた時、そういえば芸大には校歌がないな、とひらめいた」という。
校歌がないいきさつを高田さんが調べていると、インターネットで「東京美術学校には山田耕筰作曲の校歌があった」という情報を見つけた。大学の図書館で山田耕筰全集を探して調べたところ、メロディー譜と出合えたという。高田さんはメロディー譜をもとに楽曲制作ソフトで電子音源を作製し、声楽科の5人に歌ってもらって「校歌再生の試み」として提出した。
1930年ごろ作られたという同校歌。高田さんは初めてメロディー譜を見た時、「歌詞から当時の学生の誇りや熱い志が伝わってくるように感じ、鳥肌が立った」そうだ。課題提出後、実際に演奏してみようと思い、芸大のグループLINEで同期生に呼び掛けたところ、予想を大きく上回る約80人が学部や専攻の垣根を越えてすぐに賛同してくれた。それで22年2月に団体を設立し本格的な再生活動を開始したという。
乗り越えた二つの壁
今日でも歌える校歌に再生するためには、大きなハードルが二つあった。一つは歌詞の一部変更だ。元の歌詞は東京美術学校卒の詩人、川路柳虹の作詞で、「美術に生くる吾(われ)ら」という歌詞があった。現在の東京芸大は1949年、同校と東京音楽学校が合併して発足した歴史があり、校名の変化に合わせる必要がある。手を尽くして川路の縁者を探したところ、存命のまたいとこで、川崎市在住で帽子作家の香山まり子さん(89)とその息子さんに連絡が取れたという。そして実際に会いに行き、変更の許しを得た。昨年2月から同4月までは組織作りやこれらの調査にあてたという。
もう一つは収録作業だ。曲自体は2分弱なのに、同年5月に始めた収録は同9月までかかったそうだ。コロナ禍でスタジオに入れる人数が制限されており、管楽器、弦楽器、打楽器、歌唱など全17パートを20回に分けて収録したという。完成した校歌はユーチューブで聴くことができる。
人とのつながり実感
高田さんらが再生した校歌は、芸大の公式の校歌になるわけでなく、学生の自由な活動の成果という位置づけだ。それでも高田さんが完成した曲を聴いた時、「はるか昔の先輩方とつながったような気がした」そうだ。また高田さんの友人で、活動についてSNS(ネット交流サービス)での情報発信などを手がけた音楽学部邦楽科2年の間宮世奈さん(21)は、コロナ禍での大学生活だったため同期生で協力して何かを作り上げるという経験がなかったことから、「同期の音だ」と感動したという。
団体は元の校歌にゆかりのある方々などへのインタビュー活動もしている。歌詞変更を認めてくれた香山さんに報告した時は、涙を流して喜んでくれたそうだ。また存命の東京美術学校卒業生に報告した時は、昔上野駅まで戦場に行く先輩たちを在校生が見送った時、最後に歌ったのがこの校歌だったというエピソードも聞けたという。
この活動を通して、高田さんは「同期と協力してひとつの曲を再生させ、その報告を芸大の先輩方にすることで芸術への強い思いやエネルギーを受け取った」と話す。間宮さんは「他大学の人がみんなで校歌を歌っている姿を見て羨ましく思ったし、実際に自分たちで再生した校歌を歌うと団結力を感じた。活動を通して、みんなで歌うとはなにかについて深く考えることができた」と語った。
校歌が完成した今、活動のゴールは来年3月に開催する予定の公演だという。そこで活動としては区切りがつくが、高田さんは「この取り組みを通じて、人との生のつながり、歴史を学ぶことの大切さに気がついた。この団体を芸大の先輩と後輩が交流をもてる場として残していきたい」と話している。
東京美術学校校歌(藝大校歌再生活動版)
作詞・川路柳虹(一部変更・高田清花)
作曲・山田耕筰
編曲・矢野耕我
緑かゞやく上野の森、
燃えたり、若き、わかき希望、
藝術に生くる吾ら。
髙き理想、
深き技術、
はげめよ永久(とわ)に、努めよ永久に。
歴史に誇る不朽の名、
巨匠の揺籃(ようらん)こゝにこそ見よ。
※この記事は、2023年10月12日に毎日新聞朝刊(東京都版)に掲載されたものです。