読見しました 干し柿

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近所の柿の木が芽吹き始めた。昨年、その木で育った実が鮮やかに色づいた頃、思い出した出来事がある。

 一昨年の秋、東北に旅行に行った時のこと。特急は使わず鈍行を利用して旅をするのが好きで、在来線で山形から秋田に向かっていた。電車の心地よい揺れのなかで、ゆっくり読書や昼寝をするのが至福の時。乗り込んでまもなく、私は眠りに落ちていった。

 「ちょっと、あんた何で景色を見ねえの? ここは絶対に見ねば」。突然、向かいに座る男性の大声に起こされた。周りを見渡すと、車両には私と男性の2人きり。言われるがまま外を眺めると、だだっ広い田んぼの中にポツンと浮かぶ山が見えた。「これは鳥海山、きれいだべ? せっかく電車に乗るなら景色を楽しまねば」

 生粋の秋田県人だというその年配の男性は終点まで、車窓から見える風景について目を輝かせながら教えてくれた。はじめは警戒心でいっぱいだったが、話にどんどん引き込まれていく。

 「話聞いていると腹がすぐべ?」。そう言って手渡してくれた、自宅で作ったという自慢の干し柿。もっちりとした食感で、甘さもほどよい。しかしお礼を言う暇もなく、終点に着いた途端、男性は大急ぎで降りて行ってしまった。素朴な優しさが込められたあの時の干し柿。これからも、柿が実る季節に懐かしく思い出すだろう。【東京学芸大・中尾聖河、イラストも】

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