すたこら 逆転の発想

すた・こら

 最近、オンライン授業で「顔が見えない相手」に出会うことが格段に増えた。まだ見ぬ相手の姿を想像する際、手助けになるのが名前だ。名前から想起されるその人のイメージは、当たることもあればまるきり外れることもある。そのどちらにせよ、名前が個人を識別する大事な要素であることは、紛れもない事実だ。

 私は幼い頃から自分の「紗凡(さほ)」という名前の「凡」という字にコンプレックスがあった。思い浮かぶのは「平凡」「凡人」「凡庸」。なんだか夢見ることを禁じられているようだ。自己紹介の時なんてもう最悪。「凡人の凡です」と言うと、必ず誰かが笑っている。あえて自虐的に言うコツは習得したが、心は穏やかではない。

「平凡でもいいからたくましく育ってほしい」。親がそう願って付けたという私の名前。もちろん何気ない日常が一番いとおしいのは分かる。ただ名前くらい、もう少し夢を見させてほしいのだ。ずっと口に出せなかった名前に対する劣等感を、大学生になって母親にぶつけた。すると返ってきたのは意表を突く言葉だった。「非凡の凡ってことでいいじゃない」「なにそれ(笑い)」

 まさに逆転の発想というやつだ。思わず笑ってしまったが、一般的なイメージで悩んでいた自分をちっぽけに感じ、「凡」という字が少しだけいとおしく思えてきた。人間は思っている以上に単純な生き物なのだ。これからは自分でも「非凡の凡です」と胸を張って言えるようになりたい。うぬぼれ屋に思われないと良いのだが。【早稲田大・榎本紗凡】

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