【震災10年】復興に向け続く挑戦

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毎日新聞 2021/3/2 東京夕刊

 東日本大震災が発生して11日でちょうど10年となる。巨大地震と大津波、そして原発事故という未曽有の複合災害に見舞われた東北地方。被災地が負った傷は深かったが、この10年の間、地域再生と復興に向けた取り組みは、たゆみなく続けられてきた。大地に根ざし、いのちを育む農業など、第1次産業に地域再生の願いを託す生産者と、その生産者と連携し、被災地に関わり続けようとする人々。乗り越える壁は高くても、挑戦をやめず、歩み続ける彼らの思いを紹介する。

新規就農、故郷再生へ 7年前に帰郷、被災地で奮闘

 「ほとんど収穫してしまいましたが、ここが畑です」。仙台市若林区に住む堀江由香利さん(43)はすてきな笑顔で記者を迎え、畑に案内してくれた。堀江さんは震災で津波被害を受け、一時は避難生活を余儀なくされたが、7年前に帰郷を果たし、新規就農した新米の農家さんだ。自営業の夫と2人の子どもの4人暮らしだが、農業に携わるのは堀江さん一人。10アールの所有地と60アールの借地で野菜類を育て、地元のスーパーや農協に出荷している。

 震災前には、就農しようという気持ちはなかった。そんな堀江さんが、農業の道に進むきっかけになったのが震災だった。

 10年前の3月11日。地震の激しい揺れの後、約3キロ先の海から大津波が押し寄せた。家族は皆、職場や学校にいたため無事だったが、家財道具は家の内外に散乱。祖父母が建てた家は解体となり、一時は内陸部に家を借りて住んだ。しかし震災から3年たち、実家周辺が集団移転の対象から除外されたことを受け、先祖が代々暮らした土地に家を再建し家族そろって帰郷する決断をした。

 その際、堀江さんは故郷再生の一助とすべく「とりあえず祖母が耕していた小さな畑で、私も何かを作ってみよう」と考えた。当時は趣味の家庭菜園レベルの取り組みを意識していたという。

 2014年に離職し、就農者の養成機関である宮城県の農業大学校に2年間、聴講生として通った。学ぶうちに、農業で自立することに故郷に暮らす意義を見いだすようになった。それからは新規就農を意識した勉強内容に切り替えた。農地探しは高いハードルだったが、何とか2カ所の借地を確保。本格的な就農を果たした。その決断について、夫や子どもたちは誰一人、反対をしなかったという。

 畑ではネギやニンジンなど育てやすく収穫時期に幅がある作物を選んで露地栽培をしている。独力で、試行錯誤を重ねながらの作業。就農当初は、周囲の人から「畑をやったこともない人が、何をやっているの」と笑われたこともある。

 就農時には「祖母が作った野菜の味を再現したい」という思いがあったが、簡単にはいかない。土地の特性などに柔軟に対応できる「経験値」が求められるからだ。それでも、農作業に慣れてきた今では、「土おこしから収穫までの作業すべてにやりがいを感じている」という。就農5年の現在、出荷量も安定してきた。見栄えが良い作物ができたときには達成感を感じ、味が高評価だった時は、やる気につながるという。

 今後は、地域の農家と協力をして生産者が苦労して作った米や野菜に無駄が無いように、自ら加工して販売する「6次産業化も視野に入れた取り組みをしたい」と意気込む。

 記者は、大学で野菜の栽培技術を学ぶ身ではあるが、自分自身が就農をする将来は思い描けないでいた。しかし堀江さんのお話を伺い、その決断力と行動力、「食」を支えるパワーに強い憧れを感じた。【千葉大・谷口明香里】

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