戦争を考える/上:東京大空襲被災の89歳女性

<戦争を考える取材班>

 日本が連合国に無条件降伏し、太平洋戦争が終結して今年で75年。今を生きる我々はあの戦争から何を学べるだろうか。キャンパる編集部は今年も「戦争を考える」企画を3回にわたりお届けする。初回は、東京大空襲で被災し、家族を支えて戦後を生き抜いた女性の証言と、激戦の地・沖縄について発信を続ける作家の思いを取り上げる。

焼け野原や遺体、脳裏に 東京大空襲被災の89歳女性

 記者の母方の祖母の姉にあたる若林アヤ子さん(89)=福島県いわき市在住=は、東京を一夜で焦土と化し、約10万人の死者を出した東京大空襲の被災者だ。空襲から75年たつ今年、間一髪で死を免れた体験や空襲後の惨状、疎開後の暮らしについて語ってくれた。

 若林さんは、東京の下町・深川で、父が大工として働く一家の長女として育った。大空襲で被災した当時は13歳。当時通っていた国民学校高等科では授業が行われることは少なく、女子挺身隊(ていしんたい)としてもっぱら軍需工場であるテント工場に動員されて働くことが多かった。「工場には学生や芸子など、さまざまな人が出入りしていて、その会話を聞くのが楽しかった」という。

 しかし、空襲が全てを奪う。1945年3月10日、家には仕事でけがをしていた父、若林さん、8歳の弟、記者の祖母である3歳の妹、妊娠8カ月の母がいた。爆音が響くなか、「早く逃げろ。父さんは後から行く」という父の声を聞き、腰を抜かして動けない身重の母の手を引っ張り、弟と妹を連れて近くの学校まで逃げた。

 やっと学校に着くと、校舎に入る扉が開かない。人でいっぱいで、もう入れないというのだ。さらに、すぐそばに焼夷(しょうい)弾が落ち、辺りが燃え出す。すると後ろから逃げ込んできた男の人が若林さんたちを見て、「こんなところにいては死んでしまう」と扉をこじ開けてくれた。母を押し込み、若林さんたちも校舎に入った。学校の周りは火の海。爆撃の振動で窓ガラスが割れ出すと、男たちがむしろをぬらして窓際に立ち、火が入るのを防いだ。しかし、近くにあったもう一つの学校は焼け、そこに避難した級友たちは皆亡くなったという。

 若林さんらが入った後、扉が開くことはなかった。朝になって外に出ると、扉の前には炭化した焼死体が折り重なっていた。昼ごろには無事だった父と合流できたが、家は焼けていた。赤ちゃんに乳を含ませ、もう一人の子をひざに抱いた3人組の親子の焼死体も見た。「今も思い出すと涙が止まらなくなる」という。

 着の身着のままで罹災(りさい)証明1枚を持ち、上野まで歩いた。罹災証明をもらうと汽車に乗れ、親戚を頼って福島県平市(現在のいわき市)に疎開した。上野までの道のりはずっと焼け野原で、炭化した焼死体がいたる所に残されていた。

 疎開後に家族5人で住んだのは、6畳ほどの小屋。土壁が壊れたり、雨風が入ったりする状態だった。配給で米や大きさの合わない衣服を手に入れ、農家を手伝って野菜などを分けてもらった。道具を失って疎開した父は大工の仕事はできず、厳しい暮らしが続く。そんな生活で楽しかった事を聞くと「山にたまに娯楽小説が落ちていて、それを拾った。ススキ畑は風を防ぐので入ると暖かく、そこで読んでいた」と答えた。

 一家は終戦後も平市にとどまる。父は国鉄で働き、若林さんも16歳から、知人の勧めで郵便局で電話交換手として働くようになる。東京在住時には成績優秀で進学も決まっていたが、諦めて父とともに家族を養うために働いた。学歴が上の同僚に負けじと働き、徐々に出世した。23歳の時、同じ局員だった夫と結婚し、家を建てた。家を建てるのは早いと反対されたが、「やっぱり、ちゃんとした家が欲しかったね」と話す。子ができても仕事はやめなかった。午前と午後の2回、若林さんの母が職場まで孫をおぶっていき、乳を飲ませて仕事をした。最終的には課長職まで昇進。55歳の定年まで勤めた。

 終戦から75年たつが、戦争の報道や戦争映画・ドラマは見たくないという。空襲後の焼け野原やたくさんの遺体を思い出して嫌になるそうだ。「苦労は買ってでもしろというけれど、あんな苦労は誰もしなくていい」という若林さん。戦争を繰り返してはならないという思いは強い。98年には空襲当時の級友の呼びかけに応じ、大空襲の夜の記録を文集に寄稿した。

これまで話すのを避けてきた戦争の記憶を、時折目を潤ませながら語ってくれた若林さん=福島県いわき市の自宅で

 

若林さんが、空襲の際に家族を連れて逃げなかったら。校舎の扉が開かなかったら。そして疎開後の自己犠牲と奮闘がなかったら――。必死の努力と幸運。そのどれが欠けても、きっと今の記者の命はなかった。

 対面して直接語られるエピソードの数々には特別な重みを感じた。戦争体験を持つ親戚や知人がいる人は話を聞きに行ってほしい。そうして伝えられる思いが、平和を継続していく力になるのではないだろうか。【東洋大・佐藤太一】

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